二 此の一連の事実は如何に説明されるか?

 ロシア共産党の一指導者が、彼の国のプロレタリア文学について論じたときに、プロレタリアは既にすぐれた作家と作品とをもつやうになつたが、まだ欠けてゐるのは、トルストイとドストエフスキーとをもつに至らない[#「トルストイとドストエフスキーとをもつに至らない」に傍点]といふ点である、といふやうな意味のことを言つた。
 この言葉を私たちは如何に解すべきであらうか? いふまでもなくそれはロシヤのプロレタリアの前衛が、トルストイとドストエフスキーとの文芸作家としての偉大さを正当に、且つ十分に認識して、現在のプロレタリア作家には相当すぐれた作家は出て来たが、この両人のやうに図抜けて偉大な作家はまだあらはれてゐないといふことを自認した言葉であるとより解釈する道はない。ではこの両作家は何によつて偉大であるか? 明かにそれはマルクス主義的イデオロギイの卓越してゐるために偉大なのではなくて、「マルクス主義イデオロギイ」や、プロレタリアの「政治闘争」と「直接の関係をもたぬ」に拘らず、彼等が芸術家としてすぐれた資質をもつてゐるために偉大なのである。それは私の言葉によ
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