一郎のやうな左翼の作家の作品とならべて、島崎藤村や菊池寛のやうな右翼の作家の作品を賞揚したのは、政治的価値と芸術的価値とを分離せずして、如何にして理解されるかを宿題として考へて貰うことにしておかう。
 一九二九年に地球の円いことを証明するのが退屈な仕事であると同様に、芸術作品に芸術的価値があるといふことを証明するのも、実に退屈なことである! 人間は一般にわかりきつたことを繰り返し言ふことを好まぬものだ。そのためにのみ、私は、前の論文で芸術的価値の説明を省略したのだ。
 次に私は簡単に主なる批判者の批判を個々に批判してゆくであらう。

         四 小宮山明敏氏の公式の破砕

 私の批判者のうちで、最も愛嬌に富んだものゝ一人は小宮山明敏氏である。氏は「近代生活」六月号に於ける「芸術的価値における相対値及び絶対値の問題」といふ私と谷川徹三氏とにあてた論文に於いて、私の前述の見解を批判されてゐる。
 氏が私たちを批判するためにポケツトに用意されてゐる公式は、マルクス主義の公式ではなくて、テエヌ主義、若しくは、テエヌよりももつと漠然たる俗学主義の公式、しかも非常にかたくなで且つ瓦斯灯のマントルのやうにちよつとさはつてもこはれるやうな脆弱な公式である。
 ある時代に価値のあつた作品は次の時代には全く無価値[#「全く無価値」に傍点]となり、次の時代に価値のあつた作品も、第三の時代には全く無価値[#「全く無価値」に傍点]となるといふ公式が、氏の理論的全財産である。しかもこの価値の喪失と獲得とは、頗る機械的に根こそぎに行はれるのである。即ち或る時代の作品は、同時代人一般に亘つて享受せられ[#「同時代人一般に亘つて享受せられ」に傍点]、彼等を全生活的に[#「彼等を全生活的に」に傍点]、または全方向的に感動せしむる[#「または全方向的に感動せしむる」に傍点]ものであり、これに反して前時代の作品は、次の時代には全く無価値[#「全く無価値」に傍点]となり、社会的には成立しない[#「社会的には成立しない」に傍点]といふのである。
 私は小宮山氏が一度でも文学史上の事実を見たことがあるかどうかを疑問とせざるを得ないのである。先づ第一に一つの時代は常に異つた、対立する階級を含んでゐるから「同時代人一般に亘つて享受せられる」作品があるとするのは、その作品の価値が階級を超越してゐることの証明になつて氏の期待とは全く反対の結論を生むことになるであらう。だが私は、これは氏の用語の不用意として、同時代といふのはほゞ同階級といふ意味に解すべきものだと勝手に変改しよう。だがさう変更しても氏の公式は猶ほ忽ち事実と衝突する。文学作品の評価は、決して全階級的に一致するものでもなければ、或る階級の作家の作品が、他の階級の読者に対して全的に魅力を喪失するものでない。ドストエフスキーもアレキサンドル・ヂユマも前時代のブルジヨア作家である。だが、ブルジヨア階級が全的にドストエフスキーを享受したといふ事実も、ヂユマを享受したといふ事実も私はきかぬ。それと同時にこれ等の作家がプロレタリア階級に対して根こそぎ魅力を失つたといふことも事実に反する。今日ロシアのプロレタリアによつてトルストイがなほ最も広く読まれてゐることは彼国の統計が示してゐる。
 ところが私がブルジヨア作家の作品にもプロレタリア作品にも、そのすぐれた作品には魅力を感ずると言つたのは、氏によれば私一個人の趣味好尚であつて、個人の趣味によつて政治的生命の、従つて政治的価値のなくなつた作品に芸術的価値を認めるのはやゝ僣越的誇大であると氏は叱正されるのである。そしてこの矛盾? は私が『芸術的価値が個人によつて決定されるものであるか或は社会的に決定されるものであるかといふことを自ら判別することができるかの如くして、なほ、明確には判別することができなかつたところに』原因があると主張されるのだ。
 これによつて氏は芸術的価値が社会的に決定されるといふ意味を全く理解してゐないことがわかる。或る芸術作品に価値を認めるのと認めないのとは全く個人的であつて、個人の趣味好尚がこの評価に重大な力をもつてゐることは氏の公式に都合がよいと悪いとに拘らず事実である。それにも拘らず芸術作品の価値が社会的に決定されると私たちがいふのは、さうした個々人の趣味好尚そのものが大体に於いて、社会的に決定されたものであるといふ意味に外ならないのである。同じ時代の同じ階級の人々の中にも島崎藤村を好む人もあり、田山花袋を好む人もあり、同じ藤村の作品の中でも、「家」を傑作とする人もあり、「新生」を傑作とする人もあるのはそのためだ。
 私が政治的価値と芸術的価値といふ二つの価値を設定することによりて説明し、小宮山氏がそれは私の前時代的趣味好尚であるとして片附けてしまつた
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング