文学とマルクス主義文学との相違は、前者は大衆の文学であり、後者は前衛の文学であるといふ点に存する。前者は政治的目的を意識せずに自然に発生し成長して来た文学であり、後者は明確に政治的目的を意識して、その目的を遂行するために書かれた文学であるといふ点に存する。こゝで、殆んどことはる必要もないのであるが、何でもすきさへあれば、誤解しようと待ちもうけてゐるやうな批評家たちのために断つておくが、私がこゝで大衆の文学といふのは、所謂大衆文学即ち大衆のために書かれた文学とは無関係であり、その中にはこの意味の大衆文学もあれば極めて非大衆的な文学があつても差支へないのであり、その逆に、前衛の文学といふのも、前衛のために書かれる文学の意味ではなくて、前衛が大衆のために書く文学も含まれてゐるのみか、むしろこの場合は後者の方が普通である位であるのである。
 以上で、私が、マルクス主義文学といふ言葉を如何に解して来たか、又現在如何に解するかといふことはほゞ明かになつたであらう。これでもまだ不明瞭だといふ人に対しては、私は遺憾ながらこれ以上はつきり説明する術を知らないと答へておくより他はない。

         二 此の一連の事実は如何に説明されるか?

 ロシア共産党の一指導者が、彼の国のプロレタリア文学について論じたときに、プロレタリアは既にすぐれた作家と作品とをもつやうになつたが、まだ欠けてゐるのは、トルストイとドストエフスキーとをもつに至らない[#「トルストイとドストエフスキーとをもつに至らない」に傍点]といふ点である、といふやうな意味のことを言つた。
 この言葉を私たちは如何に解すべきであらうか? いふまでもなくそれはロシヤのプロレタリアの前衛が、トルストイとドストエフスキーとの文芸作家としての偉大さを正当に、且つ十分に認識して、現在のプロレタリア作家には相当すぐれた作家は出て来たが、この両人のやうに図抜けて偉大な作家はまだあらはれてゐないといふことを自認した言葉であるとより解釈する道はない。ではこの両作家は何によつて偉大であるか? 明かにそれはマルクス主義的イデオロギイの卓越してゐるために偉大なのではなくて、「マルクス主義イデオロギイ」や、プロレタリアの「政治闘争」と「直接の関係をもたぬ」に拘らず、彼等が芸術家としてすぐれた資質をもつてゐるために偉大なのである。それは私の言葉によ
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