される[#「芸術的作品の価値はそれによつて表現さるゝ気分の高さによつて決定される」に傍点]、と言つてゐる。……中略……芸術は人と人との間の精神的結合の手段の一つである。そして与へられたる芸術的作品によつて表現されたる感情が高ければ高いだけ[#「与へられたる芸術的作品によつて表現されたる感情が高ければ高いだけ」に傍点]、それだけ都合よく[#「それだけ都合よく」に傍点]、他の諸条件とゝもに[#「他の諸条件とゝもに」に傍点]、この作品は上記の手段としての自己の役割を果し得るのである[#「この作品は上記の手段としての自己の役割を果し得るのである」に傍点]。何故に守銭奴は失はれたる金銭について歌ふことはできないか? 至つて簡単である――たとひ彼がその損失について歌つたとしたところで、彼の歌は何人をも感動せしめない、言ひ換へれば、彼と他人との間の結合の手段に役立たないからである」(前掲書四〇――四一頁、傍点引用者)
無論この引用文によつて「芸術的価値」の何たるかを理論的にはつきりと把握することは困難である。しかし芸術的価値[#「芸術的価値」に傍点]が一つの独立した価値を形成するものであることは明白に知ることができる。即ち或る芸術作品のうちに表現されてゐる気分の高さ[#「気分の高さ」に傍点]或は感情の高さ[#「感情の高さ」に傍点]こそ芸術的価値の大いさなのである。
この芸術的価値が、社会的に決定されるものであるに拘らず直接には政治的価値と無関係であることは、プレハノフの同じ書物からの次の引用によりて明かである。
「初期レアリスト達の、保守的な、そして部分的には反動的でさへある思想形態は、彼等が彼等を囲繞する環境をよく研究し、芸術的意味に於いて非常に価値のある作品を創作するのを妨げなかつた[#「芸術的意味に於いて非常に価値のある作品を創作するのを妨げなかつた」に傍点]。しかしそれが彼等の視野を甚だしく狭めたことには何等の疑ひがない。」(前掲書五六頁、傍点引用者)
この種の引用はいくらでもあげることができるであらうが、たゞこの論文を煩雑にするだけであるから、たゞ社会的価値以外にその一部分としての芸術特有の価値を認めない愛すべき吾が国の一群のマルキシスト・クリチツクたちに反省の一つの材料を提供するだけにとゞめておかう。そして、正直なマルクス主義批評家林房雄氏が、藤森成吉や前田河広
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