恐ろしき夜は刻々にふけて行った。二人は無言のまま夜のあけるのを待っていたが、二人とも明けがたになって、うとうととまどろんだ。
五
翌朝、先に床《とこ》をはなれた嘉子は、玄関に投げこんであった××新聞の社会面を見たとき、もう少しで卒倒するところだった。
「昨夜|牛込《うしごめ》山吹町の惨劇」、「被害者は妙齢の美人、犯人の目星つく」という初号活字を交《まじ》えた四段抜き三行の標題《みだし》で次のようなことが記されてあった。
「昨夜《さくや》十一時、牛込区山吹町××番地朝吹光子(二二)は何者かのために胸部を短刀で突き刺されて惨殺されておるのを発見された。所轄××署よりは、直《ただ》ちに数名の警官出張し、警視庁はただちに管下に非常線を張りて犯人厳探中である。臨検の警官は既に有力な証拠品をつかんだらしく、深夜にも拘らず×××署を捜査本部としてある方面に活動を開始した模様であるから、本日中には犯人は逮捕される見込である」
「被害者の屍体を発見した隣家の老婆は語る――光子さんの家では十一時にもなるのに、玄関の戸も居間の襖も開けっぱなしになっているので、あんまり不《ぶ》用心だと思ってのぞいて見ますと、光子さんが布団を着てやすんでおられる様子でしたから、二度ばかり呼んで見ましたが返事がないので上《あが》って見るとあの始末なのです。妾《わたし》は腰を抜かしてしまってしばらくは言葉も出ませんでした。」
「被害者の身許《みもと》は不明であるが、近隣の人々の話を総合したところでは、本年四月まで浅草雷門前のカフェ大正軒に女給をしていたということである」
「記者は逸《いち》早く大正軒を訪《と》い生前被害者を知っていたという女給|百合子《ゆりこ》についてただすと、百合子は『まあ光子さんが人手にかかって?』とおどろきながら語った。『あの人は人にうらまれるようなかたじゃないのですけれど、こちらに勤めておられる時分から色々なお客様と関係があったようですわ。何でも学生の方が二人と、たしか木見《きみ》さんとかいう請負師の方と、それから、大宅さんとかいってこの春からお役所へつとめておられる方とが、よく見えたように思います。そして噂によると、その請負師のかたと今の所に同棲しておられたということですわ」
「被害者の懐中より一通の封書と一通の電報とが発見された。封書の差出人は単にO生とあるのみであるが、被害前日の日附にて、『明日《みょうにち》夕方帰りに寄ります』という文句が認《したた》められてあり、用箋には××省の用箋が使用してあった。大正軒女給の言った大宅某と同一人であろうと記者は察する。電報は、名古屋《なごや》駅発信で、発信時刻は当日午前七時二分、受信八時二十分で電文は『キユウヨウアリチユウオウセンニテマツモトヘユキアスアサイイダマチツクキミ』となっている。電文の末尾にあるキミとは請負師の木見のことではなかろうか」
「屍体《したい》にはメリンスの掛布団をかけて一見眠っているように見せかけてあった。兇行の発見を長びかすための犯人の小細工らしい。現場は非常に取り乱され、箪笥《たんす》、鏡台等の抽斗《ひきだし》はのこらずひき出して中味はまぜっかえしてあったが、紛失物もない模様であるからこれ亦《また》強盗の仕わざと見せかけるための犯人の詭計《きけい》らしい」
「同夜、山吹町で履物《はきもの》専門の空巣ねらいが逮捕されたが、同人は、被害者宅にてキッドの赤靴を一足盗んだという奇怪な陳述をしているので取調中である」
新聞の記事は大体以上のようなものであった。嘉子は靴のところを読んだときに思わず、昨夜大宅が玄関に脱ぎすてたままになっていた靴に目をやった。それはまだ買いたての新しい靴であることが一目でわかった。
――靴――ズボンの血――××省の用箋――大宅――嘉子は咽喉《のど》がつまってものが言えなくなった。
「おい、新聞を貸して御覧《ごらん》」
いつのまにか、三四郎も起きて、嘉子のうしろにたっていた。嘉子は思わず新聞をかかえた。
「お見せというに、何か出てるんだろ」
嘉子の全身がわなわな慄《ふる》えているので、大方の事情を察した三四郎は、つとめて冷静を装いながら追窮した。
「すみません、すみません……」
と言いながら、嘉子は新聞をそばにおいたままとうとうその場に泣き伏してしまった。
三四郎は非常に緊張して新聞の記事を読みおわった。彼は、自分に嫌疑がむいて来ることはもう覚悟していたのであったが、それでも新聞の記事を読むと胴慄《どうぶる》いがとまらなかった。が新聞記者が嘉子に少しも嫌疑をかけていないのを発見してほっとした。やっぱり嘉子ではないのかなと思って彼は嘉子の方をちらりと見た。嘉子はまだ顔をふせたまますすりないていた。矢張り嘉子だ。「すみません」とたった今彼女が言った言葉の意味が、彼にははっきりとわかったような気がした。
二人は互に相手の言葉をおそれた。慰さめることも、責めることも、といただすことも敢《あえ》てし得なかった。ただめいめい自分の胸の中で全てを諒解してだまっていた。
六
その朝私立探偵|上野陽太郎《うえのようたろう》は、マドロスパイプをくわえながら、矢来《やらい》の通りの舗石道《しきいしみち》を大股に歩いていた。彼は必要のない時には何も考えないで出来るだけ頭を休めておくということをモットーとしていたので、今もそれを忠実に実行しているらしかった。
朝の新聞で光子殺害の記事を見て、彼は大急ぎで山吹町の兇行の現場へかけつけ、約二十分ほどの間、現場を精細に観察したり、見張りの警官に二三質問したりしてその場を引き上げ、これから今度の事件の捜査本部になっている×××警察署へ行くところなのだ。現場の視察からは彼は新聞紙に報道されている以外には、何等《なんら》新しい証拠をつかめなかったらしく、ただ古新聞を一葉拾って来ただけだった。
「何かかわったことが見つかりましたかね?」
上野の名刺をもって出て来た×××署の佐々木《ささき》警部に向って、彼は一寸《ちょっと》パイプを口からはずしてたずねた。
「そうですな。」と佐々木警部は相手にも椅子《いす》をすすめながら、自分も椅子に腰を下《おろ》して徐《おもむ》ろに言った。「例の手紙の差出人がやっとわかりましてね、これから検挙に向うところです」
「すると差出人は新聞に出ていたのとはちがうんですな?」
「そういうわけでもないのですが、何しろ相手が官吏ですからな、××省へ行って、本人が果して実在の人物か否かをしらべ、本人の自宅の番地などもききたださねばならず、筆蹟などもよくくらべて見て、愈々《いよいよ》それにちがいないことをたしかめるには、新聞記者があてずっぽうに書きなぐるのとはひまがかかる点は認めていただきたいですな」
「でその大宅という男に嫌疑がかかっているわけですな?」
「まあそうです。」
「ほかに何か新しい材料は?」
「別に……そうそう、今朝被害者宛に電報が来ましてね。発信人は矢張りキミという男で、甲府《こうふ》の駅から打っているのです。今朝の四時二十分の発信で、配達されたのは六時半頃だったそうです。文面はたしか『一○ジ二一フンイイダマチツクエキマデムカイタノムキミ』となっているんです。かわいそうにその男は情婦が殺されたのも知らずに帰って来てさぞ吃驚《びっくり》することでしょう。しかし、この男をといただして見れば、被害者の身許や、大宅との関係などももっと詳しくわかるかも知れませんから、証人として直《す》ぐに引致する手筈になっています。それに今のところ屍体の引取人もありませんから」
上野探偵はポケットから時計をとり出して見ながら言った。
「十時二十一分に飯田町《いいだまち》へつくんですね。で木見という男の人相はわかっているんですかい?」
「そりゃ大正軒の女給の話でわかっていますが、念のためにその女給に駅まで行って貰うことになっています」
「そりゃよかった……ではもうすぐ十時ですから、私もちょっと駅まで行って見ますかな、ここから歩いて行ってもまだ間にあいますね。ああそうそう。忘れていたが、手紙と電報とは矢張り被害者の懐中にあったのですな?」
「懐中と新聞にあるのは間違いで、袂の中にあったのです」と佐々木は新聞の報道の杜撰《ずさん》を証明するのはこの時だとばかり少しそり身になって言った。
「手紙の封筒に血で指紋がのこっていたというのはほんとうですか。今見張りの警官にきいてきましたが? しかも指紋は被害者の指紋ではなかったということですな?」
「そのとおりです」
「被害者の家の状差しは空っぽでしたが、あの中には屍体が発見された時から手紙類は一つもはいっていなかったのですか?」
「そうです」
上野はポケットから一葉の古新聞をとり出して警部に渡した。
「現場でこれを拾って来たのですがね、何かの参考になるかも知れませんからお渡ししときましょう」
佐々木警部は小さく折って折り目の大分《だいぶ》すれている××新聞を、大急ぎでひろげてずっと標題《みだし》に眼をとおしながら言った。
「昨日の新聞ですね、これは、何か変ったことでもでているのですか?」
「六面をよくごらんなさい。」
「ほほう、これは静岡版ですな。ここに何か出ているのですか?」
佐々木の視線はいそがしく活字の上を走った。
「何も出てはいないのですが、犯人が昨日静岡県からか、若《も》しくは静岡県下の駅を通過して東京へ来たものだということがこれでわかるじゃありませんか? 東京ではこの版は売っていませんからね。ところで、私は時間がありませんから、ちょっとこれから駅へ行って見ます」
こう言いながら上野探偵は麦藁《むぎわら》帽子を被《かぶ》って、急いでおもてへ出た。
七
上野は駅へつくと先《ま》ず売店で旅行案内を一冊買った。
待合室には二人の知りあいの刑事が、一人の若い女と笑いながら何か話していたが、上野の姿を見ると、「あっ上野先生だ」と言いながら起《た》ちあがってお叩頭《じき》をした。
「貴女《あなた》が百合子さんですね?」探偵は女の方へむきなおって言った。「はあ」と女は低声《こごえ》で答えた。
「今汽車がつきますから、貴女は相手に見られないように僕のうしろにかくれていて木見という人間を私に教えて下さい。それから、あの男は山吹町の被害者の家へまっすぐに行くにきまっているから、君達も仰々《ぎょうぎょう》しくここであの男を引致するようなことはしないがいいぜ」と上野は二人の刑事に向って言った。
そのうちに汽車が到着した。駅の構内は急にざわざわした。二人の刑事と上野とは改札口の近くに並んで立っていた。百合子は上野のうしろに身をかくして、二人の男の肩の間から眼だけ出して、改札口から出て来る人々を熱心に見張っていた。
「あれですよ。あの赧《あか》ら顔の肥った男です」と言いながら、彼女は上野の背を指でつついた。
四人の眼は同時に百合子が今説明した人物にそそがれた。
彼は、赤帽からトランクを受けとるや否や、急いで車をやとった。『山吹町』という声を四人ははっきりときいた。
「君たちはこれからタキシイであの男をつけて行きたまえ。そして向うでよく様子を見た上で、突然逮捕するんだ。早すぎてもおそすぎてもいけないよ。十分位様子を見ていたまえ、僕が署長には伝えておくからその点は心配ないよ。だが抵抗するかも知れんから、用心して四人位でかかるがいいよ。百合子さんはどうも御苦労でした。さあこれから私たちは本部へ帰りましょう」
飯田町駅から二台のタキシーが飛んだ。一台は山吹町へ、一台は×××署の方向へ。上野はタキシーの中で、非常に敏捷に旅行案内のページをめくって、しきりに手帳に数字を写し取っていた。
自動車が署の前でとまると、上野は急いでとびおりて佐々木警部の室《しつ》へかけこんだ。
「大宅はもうつれて来ましたか?」
「もう帰って来る時分です」と佐々木は柱時計を見ながら答えた。上野はいそいで言葉をつづけた。
「木見という男は山吹町
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