、大正軒の前まで来て、急に彼女にあうのがきまりわるくなって引き返したことすらもあった。
三四郎が大学を卒業して××省書記に採用されてからまもないある土曜日の晩であった。恰度《ちょうど》四月のことで大正軒の広間には造花の桜が一ぱい咲き乱れており、シャンデリヤは部屋一ぱいに豊満な光を投げていた。白いエプロンの襟《えり》に真鍮《しんちゅう》の番号札をつけた光子は、三四郎のそばに立って一寸《ちょっと》あたりに気をくばりながら低声《こごえ》で言った。
「妾《わたし》近いうちにここをやめようと思うの」
芳醇なカクテールにほんのり微酔《ほろよい》していた三四郎は、
「そりゃ困るね。君が居なくなっちゃ僕の生活はアメリカ無しのコロンブス同然だよ」と彼はドストエフスキーの文句をひいて不良少年じみた冗戯《じょうだん》口調で言った。
「でもね」と光子は存外|真面目《まじめ》で、矢張り四辺《あたり》に気をくばりながら低声《こごえ》で続けた。「カフェの女給なんてまったく奴隷みたいなものよ。主人からもお客からもふみつけにされてね。それでいて朋輩《ほうばい》同志だってみんなひがみあっているのよ。口先では体裁のいいことを言っているけれど、女なんて心の中じゃみんな仇《かたき》同士だわ」
日頃からフェミニストをもって任じていた三四郎は、女からこの現実的な訴えをきいて、虐《しいた》げられた女を虐げられた状態のままに享楽しようとしていた自分の矛盾を恥じた。そして非常に感激して、急に真面目になって言った。
「そりゃいい決心だ。まったくこういう所に長くいてはよくない。があとで生活に困りやしないかね?」
「………」
「月にいくらあったらやっていけるもんかなあ?」
「いくらもかからないと思うのよ。間借りでもしてゆけば」と光子はうつむきながら答えた。
「三十円位なら僕でも出せるがなあ。君さえかまわなければ」
「だってそんなことをしていただいちゃすまないわ」
「なあに、君の方さえよければ、僕は是非《ぜひ》そうさして貰いたい位だ」
こうして光子はカフェをやめることになったのである。大宅は実際月三十円の負担と、一人の女性を奴隷状態から救ったという、人道主義者的の誇りとの交換を後悔してはいなかった。その日から大宅の生活は一層ひきしまって彼はふわふわした女性崇拝主義者から、堅実な青年に一変したのであった。それまでだって、二人の間の関係はきれいなものではあったが(勿論《もちろん》心の中まで彼がピューリタンであったわけではないが)その後は益々きちょうめんになって、光子が山吹町の路地に六畳に三畳の借家《しゃくや》ずまいをするようになってから今まで、手紙の往復以外に、二人が直接会ったことは今夜とでも三度しかなかった位である。金で女に恩を売ったように思われることを極度に警戒して彼は避けていたのだ。
二人のこれまでの関係を知っているもの――或は誤解しているものと言った方が適当かもしれぬ――は世界中に一人しかない――少なくも大宅はそう信じていた。それは、大宅が役所へつとめてから間もなく田舎《いなか》の女学校を出て上京してきた、許嫁《いいなずけ》の嘉子《よしこ》だった。大宅は嘉子と同棲する前に、そうするのが義務であると信じて、すっかり光子との従来の関係を彼女に平気で自白してしまったのであった。その時嘉子の顔がさっと曇ったのを大宅は今でもよく記憶していた。
光子からはその後時々手紙がきた。二人は会った時はいつも淡白にわかれたが、手紙ではかなり濃厚な文字をつらねることもあった。まるで普通の男女間の交際の公式の反対なのだ。それで光子からその手紙がつく度《たび》に、嘉子の心が平らかでなかったことは、言うまでもなかった。嘉子は明《あきら》かに二人の関係を誤解しているのだし、誰だって誤解するにきまったような関係でもあったのだ。
ことに、昨日の朝着いた光子からの手紙には、是非今日会って話したいことがあると書いてあったので、それがもとになって、彼が光子にまだ仕送りをつづけているのはあまりに嘉子をふみつけにしたしうちだと、嘉子が涙ぐんで食ってかかったのをきっかけに、今朝《けさ》、役所へ出がけに二人は同棲後はじめてひどい喧嘩《けんか》をしたのであった。三四郎の方では、光子に対して何等《なんら》疚《やま》しい関係はないということ、男子が一たん約束をした以上は、何とか相手の身のふりかたがきまるまでは約束をやぶるわけにはゆかないことを意地になって言い張ったので、とうとう喧嘩別れになったままで彼は出ていったのであった。嘉子は嘉子で「これから妾《わたし》が光子さんに会ってじかに話をきめてきます」と捨台詞《すてぜりふ》をのこして三四郎にわかれたのだった。
ところが三四郎が役所から帰りに光子の家へ来て見ると、光子はもう屍体となってしまっていたのだ。
三
光子の屍体を見出した瞬間から、大宅三四郎の頭には、どうしても抹殺《まっさつ》することのできない疑いが執拗《しつよう》に巣くった。彼はこの疑いに触れることを恐れて、わざと避けていたのであるが、避けようとすればする程、益々はっきりとした形を帯《お》びてくるようにすら思われた。
彼は自分の家へ入るのを恐れた。――嘉子はもう帰っているだろうか? どうしているだろう。犯した罪の恐ろしさに泣きくずれているのじゃなかろうか? もう既に警官に発見されて引致《いんち》されたのじゃなかろうか?――
まるではじめての家を訪れる時のように、彼はしばらく我が家の前に佇《たたず》んで思案をこらしていた。家の中は森閑《しんかん》としていて別に変った様子もなかった。とうとう彼は思いきってくぐりを開けた。
玄関へ迎えに出た嘉子の態度にはひどく平常《ふだん》と変った点はなかった。ただいつもとちがっている点は、殆んど口かずをきかないこと位だった。しかし、それは今朝役所へ出かける時に傷つけられた感情の余勢と見る方が自然な位であった。
「まあどうしたんでしょう」大宅の脱いだズボンをたたんでいた嘉子は、突然|吃驚《びっくり》して叫んだ。「おズボンに血がついててよ」
「えっ」と血相をかえて大宅は叫んだ。なる程ズボンの膝のところに、まだ生々しい血のりがついていた。あれだけ用心をして来たのに、家へ帰るが早いかこんな大手抜かりを発見されたことは、彼の心をひどく萎縮させた。彼はまごまごしてしまって、血のついたわけを説明する口実を見出すこともできなかった。
「どうしてそんなもんがついたのかなあ、とに角《かく》汚いからよく洗っといておくれよ……それからと、今日誰か訪ねて来なかったかい?」と彼はなるべく自然に話頭《わとう》を転換しようとした。
「ええ別にどなたも……そうそう、そういえば夕方ちょっとお巡《まわ》りさんが来ましたわ」
「何、巡査が?」
「ええ、ずいぶん人の悪いお巡りさんよ。わたしのことをいろいろ根掘り葉掘りきくんですもの」
「どんなことをきいたんだ?」
「………」
「なんてきいたの?」
「御主人とどういう関係ですかなんてね。妾《わたし》返事に困っちゃったわ。だってまだ籍ははいっていないし、姓がちがうから妹だなんて言うわけにもいかないし、仕方がないから親戚のものだって言っといたわ」
「なんだ、戸籍しらべか? それっきりだったかい?」
「帰りがけににやにや笑っていたわ。きっともう知っているのよ」
「何を知ってるんだ?」
「………」
三四郎は思わずにじりよったが、不図《ふと》勘ちがいで真面目になりすぎたことに気がついて、あとは笑いにごまかしてしまった。
それっきり二人はだまって食膳に向った。今朝の喧嘩のことも光子のことも二人とも一語も言わなかった。但し三四郎は嘉子の様子をそれとなく注視していた。彼には何もかもが意外だらけだった。恐るべき罪を犯した筈の嘉子のあの驚くべき落ちつきはどうだろう。ことによると嘉子は何も知らぬのじゃないかしら。いやそんなことは絶対にあり得ない。今朝の彼女の言葉、いま光子のことをわざと一言も言いださぬ点、つとめて落ちついた態度を装っているらしいこと、それ等《ら》の事実は、すべて彼女が犯人だという断定に帰着してゆくのであった。
――しかし、すんだことはしかたがない。なるべくこの事件は、このまま秘密に葬られてしまってくれればよいが、人を殺すというようなことは許すべからざる大罪だが、もとはみんな自分のためだ。自分を愛すればこそ、嘉子はあんな大胆なことをしたのだ。法網をくぐるのはよいことではないが、あの女が法のさばきを受けるとなると、自分は手を下さずして二人の女を殺したも同然になる。何とかしてこのままにそっとすましてしまいたいものだ――
四
三四郎はその晩一睡もできなかった。宵《よい》に目撃した惨劇、それにつながる様々な回想と、臆測とが、次から次へと彼の頭の中を交替して占領するのであった。神経は針のように尖って、ごとりと音がしても、警官がふみこんで来たのではないかと思ってひやりとした。
――嘉子が果《はた》して犯人だろうか? ――この疑いは特に彼を苦しめた。
――女というものは異常な場合には異常なことをし兼ねない性質をもっている。特に愛する男のためには、想像もできないような残忍性を発揮することがある――とりわけ――彼はバルザックの言葉を思い出した――女というものは、一度別の女のものであった男を愛する場合には、全力を賭《と》して戦うものだそうである。しかも、彼女の場合がちょうどそれにあたるではないか?
――二人の女が――しかも多感な女が一人の男を奪いあう場合、彼女達は手段をえらばない。どんな残忍な、どんな陰険な手段でもとりかねない。色情のために犯された放火や殺人|等《とう》の惨劇は枚挙に遑《いとま》ない程ある。――考えれば考える程、恐ろしい疑いは益々具体的な形をとって来るのであった。
――元来、女は嫉妬という兇器をもっている。恋することの強い女ほど嫉妬も強い。「嫉妬せざる女は恋せざる女なり」というオーガスチンの言葉を逆にすれば、「恋する女は嫉妬する女なり」ということになる。ところで嘉子は自分を熱愛している。自分を熱愛していることは、光子に対する強烈な嫉妬の存在を証《しょう》するわけだ――
嘉子も長く眠《ね》つかなかった。三四郎は嘉子の小さい頭の中で、良心が彼女をせめさいなんでいるさまを想像していじらしくなって来たが、それと同時に、あくまでも自分の犯行をつつんで、表面平気を装うているらしい彼女の大胆さがにくらしかった。
いずれにしても、光子の家で、へまな証拠をのこして来たことを彼はかえすがえすも後悔した。あれがもとで足がついて、嘉子の犯罪が発覚するようなことになったら大変だと彼は思った。もしもの場合には、証拠をのこしておいたのを幸いに、自分ですべての罪をきてやろうかとも考えた。しかし、そんなことをしたところで嘉子の身は矢張り破滅だ。彼女は、自分に罪をきせてだまっているような女ではない。矢っ張りこのまま何事もわからず、闇から闇に葬られてしまえばよいがなあ――
彼が妄想にふけっているうちに、いつのまにか眠っていたらしい嘉子の唇がその時突然動いた。
「許して下さい、光子さん。あーれ、光子さん――」
三四郎は飛び上《あが》るほどびっくりして、
「どうしたんだ、おい」
と次の文句を聞くのがおそろしさに、嘉子の肩の辺《あたり》をつかまえて揺《ゆす》り起した。嘉子はびっくりして眼をさました。
「ああ怖かった。夢でしたのね。ああよかった。妾《わたし》何か言って?」
「何かうなされていたよ」
「まあこわかったわ――でも不思議ね。ちょうど妾《わたし》が考えていることを夢に見たのよ」
「どんな夢を見たんだ?」
「あなたが気を悪くするといけないから今は言えないわ。ああ恐ろしかった」
彼女はまだ恐ろしさにふるえていた。三四郎も恐ろしさにふるえた。恐怖にとらわれて二人は思わず顔を見あわせた。そして、相手の形相《ぎょうそう》を見て更《さら》にふるえた。
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