て大きくうなずいた。
「君は昨夜、浅野護謨会社の小使を殺したろう?」
 獲物に向って発射した弾丸《たま》の手ごたえを見定める時の、熟練した猟夫のような眼で、課長は穴のあく程相手の顔を見た。今の不意討ち的訊問の手ごたえを見てとろうとしたのである。
 ところが、彼の期待とは打ってかわった妙な反応があらわれた。今村はぽかんとして、無感動な調子で「何ですか?」と訊きかえした。実際よくききとれなかった様子である。課長は、化学反応の実験がうまくゆかなかった時の理科の教師のように小首をかしげた。しかし彼はすぐに気をとりなおした。
「浅野護謨会社の小使を殺したのは君だろうというのだ」
 課長は、相手を容易ならぬ強敵と見てとって、できるだけ冷静に言った。いくら隠しだてしたって、こちらでは何もかもわかっているということを犯人に強く印象させる必要のある時に彼が用いる態度である。
 今村は、はじめて、自分が容易ならぬ嫌疑を受けているらしいことを自覚して、総身《そうみ》に水を浴びたように胴慄いした。そしてこれまでの自分の返事が、みんな自分の実際の気持ちを裏切って相手に不利に解釈されていることに気がついて底知れぬ不安に打たれた。課長に対する敬愛の心は、忽ち憎悪の念にかわった。唇は歪み、舌はひきつってとみに返事もできなかったので、彼はだまっていた。ところが彼がだまっていたのは、却って彼の図太さの証拠であると課長は判断してこういう場合にいつも用いる、息をもつかせぬ「急追法」をとった。

     七、証拠

「昨夜君は何時に社を出た?」
「かっきり十時に出ました」
「それから真直に家へ帰ったか?」
「はあ真直に帰りました」
「そうか、君は算術は出来るね? 社を出たのがかっきり十時、それで君が家の門口まで帰ったのは今朝の一時二十分過ぎだ。君は帰り途に三時間と二十分費やしているわけだよ。その頃は電車はとまっていたそうだが、京橋から君の家までは、いくら足のおそい人でも、徒歩で二時間あれば沢山だ。ことに昨夜のような雪の晩には、誰でもそうのろのろ歩いているものはない。若し君が真直に家に帰ったのなら、十時に社を出たというのは偽りだろう」
 今村は帰途で奇禍にあったことを余っ程話そうかと思った。けれども、それは何も証拠のないことである。却って不自然なつくり話だと思われる恐れがある。彼は返事に窮してまただまった。
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