脳髄にも同様の決定性がはたらいてゐる筈なのである。』
[#ここで字下げ終わり]
この時には、ゾラによれば、小説家は科学者となり、小説家のなすべき仕事は、人間の個人的及び社会的生活を分析することになつて来る。生理学者が物理学者や化学者の仕事を継承して来たやうに、小説家は生理学者の仕事を継承して、観察と実験とをしてゆくやうになる。小説家は一種の心理学をつくつて生理学を補つてゆくのである。而して、小説家が人間の性質を研究する道具は実験的方法なのである。科学的研究、実験的推理によりて、理想主義者の臆測は次々に征服され、純然たる想像によりてつくられた小説は、観察と実験との小説に代つてゆくのである。
とは言へ、人間の科学、即ち実験小説は、まだ法則をうちたてるやうな域には達してゐない。たゞ私たちに言ひ得ることは、人間界の凡ゆる現象は絶対的決定性をもつてゐるといふことに過ぎないのである。凡そ科学完成の程度は、その科学がとりあつかふ対象の複雑さに逆比例してゐる。物理学及び化学の対象は最も単純な現象である。そこで、これ等の科学は最も厳密な法則科学となつてゐる。生理学になると、その複雑さが遥かに増して来る。従つてこの科学の発達はまだ比較的幼稚である。最後に人間の精神生活の科学即ち実験小説の取り扱ふ対象に至つては、その複雑さが更に一層甚だしい。それ故に、この科学(小説)はまだ法則を云々する域にすらも達して居らぬのである。人間科学が幼稚であるのは方法の罪でなく、対象が複雑なためである。
エミイル・ゾラは、実験小説の神髄を次の如く要約してゐる。
[#ここから1字下げ]
『先づ、生理学が教へるやうに、遺伝、環境等によりて、人間の精神生活の機構を説明し、ついで、この人間を生理学者の手から引離して、社会的環境の中において見る。この社会的環境なるものは、人間自らがつくつたものであり、人間が毎日変へてゐるものであり、その中にありて人間自ら亦絶えず変化してゐるものなのである。』
[#ここで字下げ終わり]
ゾラの言はんとするところを一言で言ふならば、小説家は、生物学と社会学との両方面から人間を研究する科学者であるといふことになる。
四
以上は実験小説(自然主義小説)の純論理的根拠である。実験小説はもつと実際生活に密接な関係を有する役割、ゾラの言葉によれば道徳的役割 〔ro^le moral〕 をもつてゐないだらうか?
若し、生物学及び医学が十分に発達したならば、医師は疾病の原因をすつかり知りつくして患者を完全に治癒し得るやうになるであらう。人間は完全に自然を征服して、その法則を利用し得るやうになるだらう。かゝる状態は、今日の科学者が夢想とするところであつて、これほど高貴な、これほど高尚な、これ程偉大な目的は又とあるまい。
実験小説家の夢想するところもこれと同じである。小説家の目的も科学者の目的と同じであつて、一定の社会環境に於て、人間の知的、情的生活がどうなるかを、実験的に示すことにある。若し、他日これが、法則的に正確に知悉されるやうになつたならば、個人及び環境を変へることによりてよりよき社会状態に達することができるであらう。かくの如く高貴にして、かくの如く応用の広汎な仕事はまたとあるまい。
[#ここから1字下げ]
『善悪を知悉し、人生、社会を統制し、遂には社会主義の全問題を解決することによりて確乎たる正義の基礎をすゑつけること、人間の一切の事業のうちで、これほど有益で、これほど道徳的な事業が又とあるだらうか?』
[#ここで字下げ終わり]
実験小説家の役割は、これを理想主義小説家と比較することによりて一層鮮明となる。こゝで理想主義小説家といふのは、観察と実験とを無視して、超自然的な、不合理なものにその作品の基礎をおき、現象の決定性を逸脱した、神秘的な力をゆるす作家のことである。
実験小説家の真の任務は、既知の事柄から出発して未知の事柄を探り求め自然を科学的に知悉することである。理想主義小説家は、未知なものは既知のものより美しく尊いものであるといふ馬鹿げた口実のもとに未知なものに甘んじてゐる。自然主義小説家は、如何なるものにも観察と実験とを用ふるが、理想主義小説家は分析することのできない神秘力をみとめ、未知の中に、法則の外に安住しようとする。[#「。」は底本では「、」]もとより理想《イデアル》を念とするものを理想主義者と呼ぶなら、実験小説家も亦理想主義者である。たゞこゝでは未知の世界をよろこんで、そこへ逃避せんとする者のみを理想主義者と呼ぶのである。現象の決定性を認めないものを理想主義者と呼ぶのである。
実験小説家を宿命論者であると批難するものもある。実験小説家は、人間を、運命の鞭の下に動いてゆく家畜の群にひきさげるものである
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング