le moral〕 をもつてゐないだらうか?
若し、生物学及び医学が十分に発達したならば、医師は疾病の原因をすつかり知りつくして患者を完全に治癒し得るやうになるであらう。人間は完全に自然を征服して、その法則を利用し得るやうになるだらう。かゝる状態は、今日の科学者が夢想とするところであつて、これほど高貴な、これほど高尚な、これ程偉大な目的は又とあるまい。
実験小説家の夢想するところもこれと同じである。小説家の目的も科学者の目的と同じであつて、一定の社会環境に於て、人間の知的、情的生活がどうなるかを、実験的に示すことにある。若し、他日これが、法則的に正確に知悉されるやうになつたならば、個人及び環境を変へることによりてよりよき社会状態に達することができるであらう。かくの如く高貴にして、かくの如く応用の広汎な仕事はまたとあるまい。
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『善悪を知悉し、人生、社会を統制し、遂には社会主義の全問題を解決することによりて確乎たる正義の基礎をすゑつけること、人間の一切の事業のうちで、これほど有益で、これほど道徳的な事業が又とあるだらうか?』
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実験小説家の役割は、これを理想主義小説家と比較することによりて一層鮮明となる。こゝで理想主義小説家といふのは、観察と実験とを無視して、超自然的な、不合理なものにその作品の基礎をおき、現象の決定性を逸脱した、神秘的な力をゆるす作家のことである。
実験小説家の真の任務は、既知の事柄から出発して未知の事柄を探り求め自然を科学的に知悉することである。理想主義小説家は、未知なものは既知のものより美しく尊いものであるといふ馬鹿げた口実のもとに未知なものに甘んじてゐる。自然主義小説家は、如何なるものにも観察と実験とを用ふるが、理想主義小説家は分析することのできない神秘力をみとめ、未知の中に、法則の外に安住しようとする。[#「。」は底本では「、」]もとより理想《イデアル》を念とするものを理想主義者と呼ぶなら、実験小説家も亦理想主義者である。たゞこゝでは未知の世界をよろこんで、そこへ逃避せんとする者のみを理想主義者と呼ぶのである。現象の決定性を認めないものを理想主義者と呼ぶのである。
実験小説家を宿命論者であると批難するものもある。実験小説家は、人間を、運命の鞭の下に動いてゆく家畜の群にひきさげるものである
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