がら、脊負子を脊負って、大声で話し掛けながらやって来る。
入日は峰の雲に隠れてしまった。径は登り尽くして平らになった。樅の木が立枯れして、白く骸骨のようになって立っている。もう一度振返って見た。飛騨にはもう雲が落ちて、今日通って来た辺などの見当は少しもつかない。この山を向うへ下りると、またいつこの飛騨の地などへ来れるか分らんと思うと、懐かしいような気がして暫く立っていて見た。
下り坂の端に立った。ぱっと一道の虹が深谷の中から天に向って沖している。深い深い何丈とも知れない谿だ、ざあざあと水音らしい響が聞えて来る。谿底はもう薄暗い。谷を隔てて黒い岩質の山が微かな夕の光を反射させている。
「ああごしてえ[#「ごしてえ」に傍点]、まあ先へ行っしゃろ、平湯はこの谷の底だで。」老夫は岩角へ腰を卸《おろ》した。
私たちは草鞋の紐をしめ直して、殆んど垂直とも思われる礫だらけの谷の道を馳け下りた。一度足を動かし出したらば、止めようがない。腹をでくでくさせながら、息もつかずに走り下りた。
藪道をくぐり抜けて渓流の岸へ下りた。ただ一面の短い草の原、今まで来た道は何処へやら、さっぱり判然《わか》らなくなってしまった。が仕方がない、川を伝って下りて行った。何だか擂鉢《すりばち》の底でもめぐっているような思いがする。斯様な所を通って行って果して温泉なぞに出られるだろうか、と疑いたくなる。ちょっと立止って耳を澄すと、川の音と、うすくかかって来た霧の中をキュッ、キュッと鳴いて飛んでいる蝙蝠とがあるばかりだ。空を仰いでも、もう虹の色はいつしか消えてしまって、薄ぼんやりしているばかりだ。後から来る老爺を待とうかと言い出したが、まあ関わず行けというので進んで行った。
川が折れ曲ったかと思うと、山陰に家が黒く見え出して来た。燈火がちらちらする。湯の香もする。人の声もする。ほっと息をついた。足も自ら急がれた。
湯煙りが上り、靄が白くゆらゆら立ちのぼる中に百六十軒の人家が並んでいる、賑かに歌をうたう声が聞えている。実際思い掛けない所を見付けたような気がした。その中の大きな家を一軒見付けて泊った。湯は炭酸泉だ、外湯で、大きな共同の浴場が出来ていて、皆下駄を穿《は》いてその湯に這入りに行く。
翌朝目がさめて戸外へ出て見ると、雲が晴れ上って、西の方に当って連峰の上、槍ヶ岳の尖頂は雲を突裂いて立っている。温泉の直ぐ後方からは乗鞍岳つづきの連山が、ごたごた聳えたっていて、今日越すのは、この連山の間の安房《あぼう》峠というので、これを越して白骨温泉へ出ると、都合二回、――一度は表から裏へ、今度は裏から表へ、日本アルプスを横断した事になるのだ。
一行は身仕度をして直ぐ裏山から登り初めたがなかなか急峻だ。折れ曲り折れ曲りして草深い中を行く、風は涼しいが藪が繁っているので熱苦《あつくる》しい。少し登ると昨日越して来た平湯峠が目にはいる。
ちょっと、曲り角に休んでいると、上の方で「アハハハハハ」と笑い声がするので、ぎょっとして見上げると、昨日の老爺が上の岩角で休んでいた。
「やあ、お早うござんすね。」「お早う。」「随分つろうござんしず。」
と言いながら、先きへ立って登って行く。そして色々な話をして聞かせる。年々この山道で春先き一人や二人死人のない事はないという。そうかも知れない。細い道の一方は深い谿、一方は切立った砂山で、たえず砂が上からほろほろ崩れ落ちて来て、径を埋めて谿へ落ちて行くのである。
登りつめて平かな砂路へ出た。道の行くては大きな黒い山の中腹目がけて打当って行くようになっている。雲は折々その山の頂からかけて一面に濃く中腹までも垂れ下って過ぎて行く、一簇《ひとむら》また一簇、その度に寒さがじっと身に沁みる。八月の中旬だというのに、山の中で蝉の声一つしない。林の樹も動かない。立ち止って耳を澄すと、岩角に突裂される雲の音が聞えるような気がする。雷鳥が一羽不意に林の中から飛び出した。
雲は次第に低くなって来た。道はまた細くなって、樅の樹の白く立枯れした林の中を行く、砕けた骨のように立っているその尖端に雲が引っかかり、裂けて、幾条にも細くなり、また集って、黙って四方に手を伸ばし、圧しつけるようにして通って行く。
皆《み》な黙ってしまった。咳一つしても雲へ響き、何か眠っている者の眼を醒《さま》し、荒れ出されてはたまらないような気がする。――森然とした中をただ黙って通って行く。
雲の中を道は自ら曲って、立枯の林の中から深い谿の上へ出た。谷からの風に雲はぱっと吹き払われた。
「ああ、やっと信州の山かな。」と言いながら老爺は道の曲り角へまた腰を卸《おろ》した。「あすこに見えるのが焼山でさあ、そら、信州の山はやっぱり大きいね、この辺まで来ると、気がせいせいする、へえ、この辺を下りせえすりぁ、信州でさあ。」
私たちも腰を卸ろして一休みした。日光が美しく信濃の山々を照らしている。青空は濃く、空気は澄んで、すがすがしい。何とも言えない好い心持だ。
鳥の歌が聞えだした。坂路を少し降りて来ると、渓流が東北に向ってながれている。もう梓の上流だ、道はその谷の上をめぐりめぐりて下る、上高地への分岐点も過ぎて大曲りに谿を一回りすると、青い草山の向うに白骨温泉の家屋が目に這入って来た。
底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年9月17日第1刷発行
2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「太陽」博文館
1908(明治41)年8月
初出:「太陽」博文館
1908(明治41)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「御嶽の表裏」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月3日作成
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