は通い手のない途だ。剣が峰を左手に仰いで池の岸から賽《さい》の河原という所を通る。一面の石原、大小千個ともなき焼石の原である。それでも幾年かの間、登山者の草鞋《わらじ》の当る所だけがすれて、少し隔《へだた》って見ると微《かす》かに白く一筋の道のようにはなっているが、近くその上へ行って見ると何処ともはっきりとは判らない、ただ所々に小石を積んで道しるべにしてあるのが、せめてもの目当である。
賽の河原は中々長い、雲の影が明るく暗くその上を照らして過ぐる。如何にも心もとない前途である。河原を上りつめると、一面急峻な偃松帯の中へはいる。径《みち》は一縷《いちる》、危い崖の上を繞《めぐ》って深い谿を瞰下《みおろ》しながら行くのである。ちょっとの注意も緩《ゆる》められない径だ、谿の中には一木も一草もない。ただ赤ちゃけた焼石が磊々としているばかり、水音も聞えない。渓の周囲には太古以来人間の足跡を印した事のない山が続々として群立している。ただ荒れている山だ。それでも次第に雲が晴れ渡って青空が晴朗に輝き暖気を増して来た。
一里ほども下ったかと思う頃、偃松の幾谿を越えて遠くの方に薄い煙が見える。「もう飛騨の国だろうか。」と思うと何となく不思議な国へ来たような気がする。確かに飛騨の国に異《ちが》いない。
偃松帯を出抜けたかと思うと、径は一層急になって熊笹の中に入る。身長よりも高い熊笹をがさがさと分けて下るが、足とまりは一段一段と段を刻《きざ》んである。その中には雨水が溜っていて踏むたびに飛び散る。両手で笹を掻き分けるので、三尺離れるともう先行者の姿はその中に没して見えなくなる。立ち留っているとがさがさと音ばかりしている。はっと明るくなったと思って顔を上げて見ると、熊笹が低くなって日影が満面に照らしている。そして熊笹の所々に頭を顕《あらわ》して黄色い石楠花が咲いている。
熊笹の中を馳《か》け下ると、栂《つが》樅《もみ》などの林に這入《はい》る。いかに巨《おお》きな樹でも一抱《ひとかか》えぐらいに過ぎないが、幹という幹には苔が蒸して、枝には兎糸《とし》が垂れ下っている。中には白く骨の如くになって立ち枯れしたものもある。あるいは枯れて倒れて草の中に縦横に横《よこた》わっているものもある。その倒れた樹の上を飛び越え踏み越えて下るのだが、その急峻といったら全く垂直線の板上を滑り落ちるようだ。落下しないために絶えず足を動かしていずにはいられない。止《と》め度《ど》なく飛び降りつづけるのである。ちょっと油断すれば先行者の姿は草か倒木の下に隠れて見失うのである。立ち止って「オーイ」と呼ぶと、遥か下の方で「オーイ」と答えるが、ただ声だけで、その声も妙に物凄く響く。樹林の中の空気も人の声を伝えた事は稀にしかないのだ。聞く者の耳も妙に変っている。この「オーイ」「オーイ」の応答が杜絶《とだ》えると、自分の心臓の鼓動が高く響くだけが気になる寂莫《せきばく》である。
遠く下の方で谿流の響が耳にはいるが、降れども降れども中々達しない。おりてもおりても殆んど同じ垂直の径である。膝頭が痛くなり、眼も眩《くら》むように覚える。かような径を果して登る人があるだろうか、下り尽したら何処へ達するのだろう。水の音は何時までも同じ度合に聞えている。
二、三里も下ったかと思うと、ふと渓流の音が近くに聞えて、路が右に一廻転する。深い草が開けて丸木を渡した谿川へ出た。もう人里も遠くなかろうと思って、倒木へ腰掛けて休んでいると、遅れた同行の一人が漸く追い付いた、先きへ行った二人の影は見えない。
「ねえ君、先きの連中は道を間違えたのじゃなかろうか。」
「なーに大丈夫だ、間違いようもないから。」
「そうだね。」見合せた二人の顔は妙に蒼白かった。言葉も不思議に澄んでひびくし、話し合う気にもなれない。何だか、渓流のざわざわいうのが次第に高くなるようで、如何しても長く停止していられない所だ、また廻りくねって林中の径を走り出した。
今度は前に比べると一層高く水声が聞えて来る。もう濁川の湯へ近くなったのではあるまいか。水声は聞えても中々林は尽きない。路の急な事も依然として急だ。一時間位も走ったかと思うと、川の縁に沿うて藁屋根が一つ目に這入った。ああ川は益田川の上流だ、家は濁川の湯だ、いよいよ飛騨の国へ来たのである。
急いで川の岸を伝って行くと、危い橋を渡って家の前へ出た。前も後も急峻な樹木の山、この山に挟まれ渓流に向った一軒家、木材だけは巌丈《がんじょう》なものを用いて、屋根も厚く葺《ふ》いてある。
「やあ、遅かったね。」と出し抜けに声がする。
驚いて見ると、左手の小屋の中からひょっくら頭を出した者がある。見ると先行者の一人である。
「早く来たまえ、好い心持だ。」近寄って見ると、かなり広い湯槽にいっぱい、上から竹樋で引いた湯が、ざわざわざわざわと溢《あふ》れて流れている、アルカリー泉のようだ。
草鞋《わらじ》を脱《ぬ》ぎ、衣服をぬぎ捨てて急いで湯へ飛び込む。柔《やわらか》な温《ぬく》よかな心持、浴槽の縁《ふち》へ頭を載《の》せ足を投げ出していると、今朝出立して来た田原の宿、頂上の白雲、急峻な裏山などは夢のようになってしまう。
湯から出て、浴槽から直《す》ぐ荒蓙《あらござ》を敷いた二階へ昇る。戸もなく、荒板の儘《まま》だ。四人は蓙の上へ裸形のまま休んでいると、上り口の方から、髪を無雑作に束ねた女の顔が出て、
「何か食べさっしゃるかね。」という、その歯は黒く鉄漿《かね》で染めている。
「何か喰べるものがあるかね、川魚でも。」
「川魚なんかありましね、御飯と御汁とならありますし。」
「じゃ、それでも好い、急いで持って来ておくれ。」持って来たのは御飯といっても砂だらけ、御汁といっても煤臭《すすくさ》いようで、おまけに塩湯でも飲むようだ。山菜とかいって野生の菜を汁の味にしたものである。その飯はざらざらしていて、如何に空腹でも二杯とは食べられない。旅宿のある所まで何里あるかというと、
「そうだね、まあ西洞まで行かっしゃりゃ、宿屋はありましず、四里だね。」
「四里じゃ、一呼吸だ、路はどうだね。」「やはり今降りて御座《ござ》らっしたような……。」
「急かね。」「だが、いくらか違いましず。」
四里の峻坂、木の根を踏み越えて下るのか。一呼吸だと意張っては見たものの実は内々閉口していた。それに空はどうやら曇って来た。これで雨にでも合おうものなら愍然《あわれ》なものだ。二階から下りようと段々の処へ行くと、戸を立て切って上に小さな木札をかけて「林務官御室」としてある。かような家でも特別室があるのかと不思議な思がした。
入口の処へは今、里から食料を運ぶ男が着いたと見えて四、五人集ってわいわいいっていた。ぎょろっと片眼の飛び出した大男が腰をかがめて、かます[#「かます」に傍点]に這入っている青物など何かと調べていた。先刻の主婦もいる、六十ほどの老婆もいる。若者が二、三人いる。見ると、入口の柱に寄りかかって帯をだらりと垂らした十八、九の女が一人、娘とも思われないのが、蒼黒い土のような顔色をしている。疲れたような眼を挙げたが、またすぐ視線を地へ落してしまう。
「何だろう、え君。」一人が小声に囁《ささや》く。「さあ、不思議だね。」「林務官室!」誰かが小声で言った。「ああ、そうかも知れないね。」――この家を辞してまた橋を渡って昇降常なき路を辿って行く。樹は次第に大きくなり、同じ栂、樅の類でも上の方に比べると勢好く生長している。谿はあくまで深い、峰もあくまで高く、如何に見上げても果しがない。枯れて倒れて朽ちた樹が同じく縦横に横わっている。はじめの間は日の光が木立の間から洩れて青白く斑に射していたが、雲行が怪しくなったと思うと、林の中が暗くなって山がごうと鳴り出した。ざわざわざわざわと草が揺《ゆら》いで、木という木は枝が打合う。如何にも気味が悪い、と思っていると、そのざわめきの中からぬっと何者かが姿を現わした。見ると二つの大きな人影だ、そして自分らの方へ向ってずんずんやって来る。近寄って見ると、黒い林務官の制服を付けた四十位の男だ。細い径をすれ違おうとするので、
「ちょっと伺います、西洞までは未だ何里ありましょうか。」と丁寧《ていねい》に訊くと、ちょっと立留ったがそのまま棒立ちになって、一行には目もくれず、何処か遠くの方を見入って、聞耳でも立てているという風で、顔の色は蒼黒く、耳が不思議に大きい。「そう、五里位はあろうかな。」と吠えるような、木の洞の中から出て来るような声でいう。「五里?」驚いた。前の湯では四里と聞かされたのが、二里も来たかと思うのになお五里だという。林務官は言い捨てたままずんずん行ってしまう。後からは筒袖を着て、背板というのを背負った男が附いて行く、すぐ草の中へその後姿は没してしまった。――山や谷はこの時一層音高く鳴り出した。「妙だね。」と何人か言い出した。
「何だか変だね。」
「ほんとの人間かしら。」同じような感じは皆の胸を走った。皆は振返って今行った人たちの後を見ずには得《い》られなかった。
遂に雨となった。
深山の雨、幾千年となく斧の入った事のない深林の雨だ。始めは繋り合う木の葉に遮《さえ》ぎられているが、次第次第に烈しく落ちて、枝がぬれ、幹がぬれ、草がぬれ、自分らの纏《まと》っている糸径《いとだて》がぬれ、果ては衣服にも沁《し》み透《とお》る。仰いでも望んでも霧と雨、果ても知れず深い千古の谿にふり灑《そそ》ぐ雨の音、黙々として谿を巻き林を覆うて浮動している霧の姿、圧すべき人類もない深山の中で、人などは度外に置いて、霧と雨とが勝手に動いているのだ。
御嶽は信濃に向っては大きな山であるが、飛騨に面しては殆ど垂直のように思われる。その深い峰の中腹を伝って下りて行くのである。何処まで行けば人里に出られるのかというような気がする。時計を見るともう四時だ。「ねえ君。これは四里や五里の道じゃないぜ。」「何里だか知らないが疲れてしまった。」雨中を六里は確かに下った。身に着けている物は一切濡れてしまった、マッチさえ火が付かない、煙草を吸う術もない。もう外部に対する勇気はなくなった。不平を口にする事すら出来ない、殆んど何処へ行くという考えもなく、また別に深い苦痛も感じない。無意識のままで、すたすたすたすた足を運んで行くばかりである。「人」だという感念すら失っている。
路が漸く急に下って、林が尽きて草山に出た。局面の変化は多少の希望を繋がせるものである。遠くに瀬音が聞えだした、益田川の本流であろう。その瀬音を耳にすると一行は俄《にわか》に元気付けられた。雨もこの時小降りになって、鼠色の雲が峰から峰へ動いて行く。が、次第に夕暗が迫って来るのが感じられる。
ふと路下の方で馬の嘶《いなな》く声がする。透して見ると草山の麓に黒いものが動いている。
「オーイ」と声を掛けると、「オーイ」と下の方で応呼する。
「西洞まではもう近いかァー。」と訊《き》くと「二里位はあるぞォー。」と言って草刈る手をやめて上を仰いでいる。まだ二里の路! 自分らは殆んど其処《そこ》に立ちすくまずにはいられなかった。気が付くと其処でも此処《ここ》でもザクザクと草刈る音がする。見ると路の直ぐ上の所にも馬を引いて来ている者が二組も三組もいる。
「何処かこの辺で泊めてくれる所はないかね。」と聞くと、「西洞まで行かっしゃれ、それまではねえだ。」といって、不思議そうに私らの方を見送っている。仕方がない西洞まで歩《あ》るくことにする。
路の両側には四、五尺にも余る草が伸びている。霧は次第に濃く群がってその草原の上を爬《は》っている。其処此処に大小の小屋が眼に這入る、今の草刈どもの泊る小屋に違いない。
草原を過ぎて松林となった。路は平かに広くなって遂に益田川の岸に出た。なかなかの急流だ、その岸を伝って走る。四辺が次第に暗くなって来るにつれて、ただ走るより外に法はない、再び機械的に走り出した。殆んど夢中に歩いた。何里位か判明《わか》らないが、山が低くな
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