深く這入って行く。雲が晴れて日が次第に照らし出す。山風はいかにも涼しいが、前途の遠いのを思うとすこぶる心もとない。
 桜沢、若神子《わかみこ》、贄川《にえがわ》、平沢の諸駅、名前だけは克《よ》く耳にしていた。桜沢以西は既に西筑摩郡で、いわば前木曾ともいうべき処である。これらの村々から松本の町へ出て来る学生がある。家から栗の実を送って来たといっては友人を集めてその御馳走をするのであった。その後では必ず「木曾のなあ――」という例の歌を唄って聞かせた。今では女の学生も出ている。同行者の一人の太田君は自分の教え子だと言ってその子の家へ立寄った。家の中は一ぱいに蚕棚が立てられていて、人のいる場所もない位。おとずれると、太い大黒柱の黒く光っている陰から老人の頭が見えて、その子は今桑摘みに行っていないがとにかく是非《ぜひ》休んで行けといって、連《しき》りに一行の者を引止めて茶をすすめながら、木曾街道の駅々の頽廃《たいはい》して行く姿をば慨歎《がいたん》して、何とか振興策はあるまいかといっていた。
 奈良井の駅は川と鳥居嶺との間に圧せられたような、如何《いか》にも荒涼たる駅である。此処《ここ》から嶺へ登るので、この嶺は木曾川と犀川との分水嶺になっている。
 嶺を越えるとその中腹に藪原の宿がある。あらら木細工、花漬などを売る家が軒を並べている。「木曾の椽うき世の人の土産かな。」うすい木片を剥《は》いで、一度使えば捨ててしまうような木の小皿が出来ている。その一枚一枚に様々な風雅な文句が摺《す》り付てある。
 この藪原の駅からは多く大工が出稼ぎに出る。年中|大方《おおかた》の日は嶺を越えて他へ出ているので、主人のいない家では戸ごと大抵馬を飼うのである。木曾馬といって小形な方で、峻坂の登り降りに最も適している。多くて十四、五頭、少くとも四、五頭は飼わない家はない。その飼養は皆女の仕事で、日中は家から遠く離れた草原へ来て馬を放し、自分らは草を刈っているが、夕方は放した馬を集めて帰って来るのである。十二、三頭並んで崖の上を廻って来る。最先きの馬の背には飼主が乗り、鞍の上で草鞋《わらじ》などを作っていると、親馬の後を追いながら子馬は立ち止って道草を食ったり、また嘶《いなな》いたりしながら走って来る。と親馬もまた立ち止って長く嘶き互に嘶き合って一つ一つ夕靄《ゆうもや》の中に消えて行く。
 藪原の宿
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