。
「これから先きには、まあこんな宿は無いでせうよ」
S君はまたこんな事を言つた。
「いつそ此処で泊らうか」
「冗談ぢやない。さう今から予定を変へられて耐るもんぢやない」
「ぢや、赤羽根まで行つて、木賃宿へでも泊らうか」
「随分意地が悪いな」
「だつて仕方がないぢやないか」
二人は砂地の疲れを十分癒して、ゆつくり休んでからその家を出かけた。
東海道を伝つて、町の出端れから地図をたよりに右へ折れて、狭い小径を歩いて行つた。今日は小松原といふ村に競馬があつて、馬頭観世音の縁日があるといふので、この近在の村々の人は皆同じ道の上を賑やかに往き来してゐた。
二川《ふたがわ》在から来たといふ男が先きに立つて、上細谷や下細谷などいふ村々を通り過ぎた。いづれも椿の大きな樹や、欅や樫の樹の茂つた村で、道の両側から椿の花はぽた/\落ちて、垣根に沿つて地面は真赤になつてゐた。
路傍に伐り倒してあつた樫の木の木材の上へ腰をおろして休んでゐると、前を通る人が皆言葉をかけて、頭を下げて行つた。猟銃を肩にして獲物袋を垂《さ》げた五六人の遊猟者が村の奥の方から出て反対の方へ過ぎて行つた。何となく半島の奥を思はせて、私達は、互に顔を見合せてその一群の後を見送つた。
道とも思へない、草藪の間や砂山の赤禿た上をよぢ登つて、小松原村といふ村へ来た。一面の人だかりで、露店が農家の軒先きに幾つも開かれてゐた。砂ぼこりを浴びた女の姿や、裾をまつ白にした女たちが、うよ/\集つて何か喰べてゐた。競馬のある処は、固く柵を結つて、中央の小松の丘に審判所が出来てゐた。砂塵を巻き上げる風の中を、白や黒の馬が半ば狂したやうに飛び廻つてゐた。
半時間ばかりも見てゐるうちに、日が西に廻つて、冷たさがその光の中を爬《は》ふように広がつて来た。今夜の泊るべき当てもないので、先きの男と分れて、教へられた道を左へ左へと歩いて行つた。
此方の方へも帰つて行く者が断え間なく続いてゐた。小松原からつゞいての村は高塚、その次ぎは伊古部《いこべ》、赤沢《あかざわ》などいふ村々であつた。もう五時近く、竹の林の靡く影が長く地に敷いて、早春の冷たさが身にしみて来る。何処にか泊る家はないかと思つて先きへ行く一群の若い男達に追ひすがつて訊いて見た。
「赤沢には有つたけえど、もうこの先きには無えね。いつそ田原まで行つちやどうだね、俺等も田原の直ぐそばの豊南《となみ》まで行くだ」
「田原まで何里ぐらゐあるの」
「まあ二里ぐれえなもんだ、なに雑作無えさ」
「赤羽根まで行けないかね」
「どうして、まだ五里もある」、と最一人《もひとり》の男が言つた。
「田原にや宿屋があるかね」
「あるとも、県道端の立派な町だ、何軒でもある」
そこで、田原まで歩くことにした。
同じ様な樫の樹の村、椿の村、麦畑の間と草原とを通つて行くと、後の方から、ほうい、ほういと掛声しながら馬を飛ばせて二三人づつ追ひ抜けて行つた。
樫や椿の常緑の森は到る処にこんもりと茂つてゐた。その間をつなぎ合せる枯草の野は風に吹きまくられて乾いた土と共に草の葉が飛ぶ。坂路を登つて丘の上に出ると、不意に眼の下へぱつと海が展開した。深碧の波は処々白く破れて、暮近き冷たさが広いその水の面にも漂つてゐた。空と水とを劃する力強く引いた一線、目醒むるやうな心持になつて、私達はその線上に眼を走らせた。今朝見た薄白い雲はもう消えてしまつて、水と接する空は、薄黄色に光つてゐた。柔かなその光は見てゐる者の心をも溶かしてしまふ。
連立つて来た若者の一群はもう先きへ行つてしまつた。私達もまた海と分れて森の中へはいつて行つた。道は西へ西へと向つて、小松の群立つてゐる赤土山へさしかゝつた。日の落ちかゝる遠い先きの方に、尾州の山が遙に見渡された。
ちらつ、ちらつと、金色をした水が、遠く行く手に当つて閃くのが見える、「あゝ知多湾だ」。私は思はず振返つてまた後の方を見た。遠州灘は遠く空の下に紺青の色をこして線を引いてゐる。私達はいま寂しい半島の奥へ奥へと歩いて行つてゐるのであつた。
もう日は沈んでしまつたが風は止まない。半島を吹き越えて海から海へと渡つて行く。磽角な赤土山はその風に吹かれて土煙が舞ひ起る。何処か谿の方で馬の嘶《いなな》き声はするけれど人影は見えない。山を下つて薄《すすき》の簇生してゐる細い川堤を通つて行くと、蝙蝠が薄の中から飛び出して、二三羽づつ夕空に舞つてゐる。薄い影が川堤の上へ長く伸びて、振り返つて見ると、七八日頃の月が冷たい光を空から投げてゐる。
薄を刈り集めて塚にした蔭に、五六人の子供が、わい/\何か言つてゐた。「田原へは真直ぐに行けば好いか」と言葉をかけると、黙つて此方を見たきり何とも言はない、もう一度繰返して訊くと、その中の一人がこつくりをした。「何
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