いついて動かない。船頭は力を入れて無理やり棹で出した。砂洲と砂洲との切れ目は水が浅く流れて、打ち込んで来る海の波と打当つて、その度毎に両岸の砂がかけ落ちる。二人は外套の襟を立てゝ船の中に身を円くしてゐたが、その砂浜の一端へ船が乗りかけて行くと、勢好く立ち上つて、砂地へ飛び下りた。
見渡すと眼前は一望の砂原だ。処々に小さな砂丘が出来て居て、その一つの蔭に十五六人の漁師等が網を引き合つて、修繕《つくろひ》をしてゐる。風が烈しく吹いてぱら/\、ぱら/\砂山から砂を吹き掛ける。「ほう、ほう」と云ひながら漁師等は、頸を縮めたり、手を振つたりして、その砂を振り払ふが、後から、しつきりなしに降りかゝる、
「ひどい砂だな、埋つて了ひさうだ」と、云ひながら一人の男は砂地から身を起して、一層近く砂山の下へ寄つて行つた。と、その時、ざあつと音がして、一群の砂が、勢好く砂丘の坂から崩れて来て、いま腰をおろした許りの男の上へ降り注いだ。
「やあ」と声を上げたが、見ると、その男は逃げ損ねて、腰から下と、右の半身とはその砂の下になつてしまつた。左手と頭とだけを動かして、抜け出ようとするが動けない。「出して呉れえ」と大声を挙げて呼んでゐる。
「見ろ、そんな処へ一人で行くせえだ、馬鹿」と、いひながら一人の男が立つて、その男の頸と左手へ手を掛けて、引き出した。右肩から下は一面の砂で、顔半分も砂がまみれ付いてゐる。「なんてざまだえ」と、皆笑つてゐる。その男は自分でも笑ひながら、右手の指でしきりに耳の砂を掘り出してゐた。
砂塵の雨はしつきりなしに上から横から降りかゝつて来る。私達は風に背を向けながら横に歩いて行つた。ちよつと立ち止まると、前後左右を飛ぶ流砂の響、ひゆつ、ひゆつと寂しい鋭い音を立てゝ飛んで行く。見る/\足の爪先きに砂が高くなり、足を上げると、足跡が直ぐ半ば消えて細長い形になる。風に向かつては殆んど眼口が開かない。
二人は小さな丘の蔭へ来て、頭だけ出てゐる黄枯《きながれ》た草の上へ腰をおろした。吹雪に出逢つた者のやうに、暫くの間、なりゆきに委せて外套の襟へ頸を埋めて眼を閉ぢてゐた。
細かな目にもとまらないほどの無数の砂と砂とは、今空中に打ち合ひ擦れ合つて寂しい微妙な楽の音を立てゝゐる。何が寂しいといつて、この無数の流砂の立てる自然の楽の音ぐらゐ寂しい便りないものはなからう。ひゆつ、ひゆつと何ごとかを告げるやうに空中に鳴り渡る。夕闇の中に鳴く蝙蝠《かうもり》の声のやうに、或は頭の上に、或は肩越しに、或は膝のあたりに、耳もとに、或は足の下へ忍びより、一人の人間の居るのが何如にも邪魔さうに、何か不平をつぶやいてゐる。ひゆつ、ひゆつ、と鳴つてゐたのが、事ありげに大挙して海の方へ向つて行く。頭だけ出てゐる枯草は、圧せられて何者かの歩みゆく跡のやうに靡く。海の上まで行くと、砂はぷすう、ぷすう、と一定のリズムをなして水へ落ち込む。
私達はまた立ち上つて、黙つて歩き出した。小さな藪や草叢が砂に埋まつてゐる。見上げると砂丘の頂に黒い人影が見える。仰いで眼を見張ると、石地蔵が赤い前垂を掛けて立つてゐるのであつた。
落着いて海を眺める気にもなれなかつた。行く先きを見渡すと、遠く砂丘が連続してゐる。風を避け避けして砂丘の間を択んで小走りに走つてゐた。縦につゞく砂丘の間では砂の降るのも少く、草が高く伸びて、通つて来た後を振返つて見ると、二条の足跡が長くついてゐる。
小高い丘の上へ出て遠く見渡すと、白ぢやけた砂浜に、浪が一せいに打寄せて来て、白く砕けてゐる。岬の果ての方は薄曇りがして、はつきり見極められない。伊良湖の十三里、まだ私達の行く先は遠いといふやうな感じが胸に起つて来た。
単調な砂丘の間を歩いてゐる中に、頭も足も重くなつてしまつた。風は稍弱つて来たが、まだ吹き止みさうにも思はれない。少しの間海岸を離れて陸地続きに半島へはいつて行かうといふので、砂山を馳け上つて、右手の麦畑の間から浜名の村へ入つて行つた。
湖水はまだ遠く波を見せて、雪の峰は微に空際《くうさい》に聳えてゐた。日は次第に暖かく、東海道の松並木は砂路の上へ黒く影を投げてゐた。藁靴の砂を払ひながら、私達は汐見坂を登つて、白須賀《しらすか》駅まで辿り着いた。
白須賀の駅は北へ向つた坂路の上に立つてゐた。中仙道の駅々に見る荒廃の姿も見せず。軒並の商家は相当に繁《さか》えてゐた。
町の中程の宿屋へ入つて、少し時刻には早いけれど、昼飯を喰べて行く事にした。中庭に沢山の庭石を並べて、姥桜の花が散つた後に青く小さな実が見えてゐた。棕櫚《しゆろ》の樹が二三木立つて、八角金盤《やつで》が広い手を伸ばして浄水鉢を抱くやうに取囲んでゐた。この駅の旧本陣らしい家の様子を見せて、欄間には渡辺華山の書などが掛けてあつた
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