かツた。でも二三日は影の薄くなツた綾さんの姿を胸に活かして、變な氣持になツてゐた。併し直に忘れて了ツて、ついぞ思出して見るやうなこともなかツた。して其の後全く消息も絶えて了ツた。
由三は然う謂ツたやうな過去の事象を胸に描いたり消したりして、フラ/\と歩き續けた。紫の羽織を着てゐた頃の綾さんの姿を思浮べると、遉に胸頭に輕い[#「輕い」は底本では「經い」]痛《いた》みを感ぜぬでもなかツた。叔父に「娶《もら》ツたら何うだ。」と謂はれたことなども思出した。兩人共夢を見て=意味も姿《すがた》も違ツてゐるが=活きてゐたことなども考へた。
由三は何時か白山の森の中に入ツて、境内をグルリと廻ツた。森の中の空氣はしんめり[#「しんめり」に傍点]として冷たかツた。其處は始めて綾さんの手を握ツて、其のカサ/\してゐるのに驚いたところだ。して今は自分の心のカサ/\してゐるのに驚いた……其の思出の深い地を踏むでゐるからと謂ツて、由三は何んの感じにも味《あぢはひ》にも觸れなかツた。矢張飽々した心の底から、何か切に空乏を訴へて、ツク/\と自分の生の凋落を思ツてゐた。
何しろ家へ歸るのが嫌《いや》だ!埃深い癈頽の氣の漂ツた家に歸ると、何時でもドン底に落込むだやうな感じがする……其の感じが嫌だ!で外《そと》さへ出ると、少時でも其の感じから脱れてゐやうとする。今日も其だ。由三は無意味に神樂殿の額を見たり、拜殿の前に突ツ立ツたり、または白旗櫻の碑を讀むだりして時を経てゐた。そしてもう何も見る物もなくなツた時分に、ウソ/\と森を出て、御殿町の方へ上ツた。其から植物園の傍の道《みち》を通ツて氷川田圃に出た。只ある工場の前に出ると、其は以前鉛筆を製造する工場であツたことを思出した。そして其の門、其の邊の路、何れも綾さんが毎日通ツた其であることを思ツた。たゞ思ツただけだ。由三は何がなし其の乾いた心が悲しくなツた。
フト軽い寒氣が身裡《みうち》に泌みた。見ると日光《ひかげ》は何時か薄ツすりして、空氣も空《そら》も澄むだけ澄みきり、西の方はパツと輝いてゐた。其處らには暗い蔭が出來た。由三はブラ下げてゐる肖像畫の重《おも》みが腕にこたへ[#「こたへ」に傍点]て來て、幾度か捨て了ふか、さらずば子供にでも呉れて了はうかと思ツた。で今更なけなし[#「なけなし」に傍点]の錢をはたい[#「はたい」に傍点]て購ツたのが
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