オイソレと直[#「直」は底本では「値」]に受込むで、サツサと自分で出掛けて來て呉れる、見得も外聞もあツたものでない、此方で頼むのに極の惡いやうなことでもいふと、
「何有、何處のお家《うち》だツて然うですわ。幾ら玄関を張ツてゐらしツても、此の邊のお家で質屋の帳面の無い家と謂ツたら、そりや少ないわ。」と低聲《こごえ》に謂ツて、はしやいだ笑方《わらひかた》をする。
 綾さんは近所の家の世帯を軒別に能く知抜いてゐた。そして其家《そこ》此家《こゝ》の質使をすることを平氣で吹聴した。かと思ふと茶屋女のやうな、嫌味《いやみ》に意氣がツた風をして、白粉をこツてり塗りこくツて、根津や三崎町あたりの小芝居に出てゐる役者の噂をしてホク/\してゐることもあツた。蔭沙汰では根津の下廻りの後《あと》を追駈け廻してゐるといふことも聞いた。
 氷店は春の間《うち》ひツそりとして、滅多と人の入ツてゐることがなかツた。母親は能く居眠をしてゐる、父は何時も火鉢の傍で煙草を喫しながらゴボ/\咳《せき》をしてゐる、芳坊は近所の男の子の仲間に入ツて、カン/\日の照付ける大道《だいだう》で砂塗《すなまぼし》になツて遊んでゐた。が夜となると、店の景氣がカラリと變る。綾さんも兼さんも、綺麗にお化粧をして店に出てゐる頃には、一人または二人づゞ若い書生さん等《たち》が集ツて來て、多い時には八九人も頭を揃へて何やらガヤ/″\騷いでゐた。何れも定連だ。そして月琴を彈く者もあれば、明笛《みんてき》を吹く者もあり、姉妹がまた其がいけた[#「いけた」に傍点]ので、喧《やかま》しい合奏は十一時十二時まで續いた。母親はこツそり其の騒を脱《ぬ》けて翌日《あす》の米の心配に來たことも往々《ま/\》あツた。由三は他に若い血を躁がせて歩くところが出來たので、決して其の仲間に加はらなかツた。して冷ツこい眼で傍觀者の地位に立ツてゐた。
 秋になツた。氷店はスツカリさびれて、夜《よる》集ツて來る定連も少なくなツた。秋が深くなるにつれて、父の衰弱も目に立ツたが、一家の癈頽も目に立ツて、綾さんはせツせ[#「せツせ」に傍点]と工場に通ひ出した。で綾さんの手は何時も鉛筆の粉で眞ツ黒になツてゐた。其でも滅多と欝いだり悄氣《しよげ》たりしてゐるやうなことはなかツたが、何うかするとツク/″\と、「阿父さんが那如《あゝ》してゐたんぢや、幾ら稼いだツて到底《とても
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三島 霜川 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング