[#「どきりツ」に傍点]とするやうな事が妄《むやみ》とあツた。また偶時《たま》には、うツかり[#「うツかり」に傍点]足を踏滑らして、川へ陥《はま》り田へ轉《ころ》げ、濡鼠《ぬれねずみ》のやうになツて歸ツた事もあツたが、中々其樣な事に懲《こり》はしない。自分は、螢の頃にさへなると、毎晩水の郷《さと》をうろつい[#「うろつい」に傍点]て夜《よ》を更《ふ》かしてゐた。
 そこで自分は、此の螢狩に就いて一つの談《はなし》を持ツてゐる。それは不思議な事柄として、永い間……大人《おとな》になツても尚《ま》だ譯の解《わか》らぬ疑となツてゐたので。前にも謂ツた通り、螢の出る季節《とき》にさへなると、自分は毎夜螢狩に出掛けて、必ず百匹位ゐ螢を捕《つかま》へて來た。ところが此の螢が一匹として、一晩と螢籠の中にゐて呉れなかツた。次の朝までには皆何處へか消えて了ツて、螢籠の中には草の葉だけが殘ツてゐて、其の骸《なきがら》さへ無かツた。
「何《ど》うも不思議だ」
 自分は、此樣な不思議な事は無いと思ツてゐた。
「何《ど》うなツて了《しま》うのだらう、豈夫《まさか》消えて了うのでも無からうけれども、何處《どこ》へ行くんだらう。逃《に》げるツたツて、逃口《にげぐち》が閉《ふさ》いであるのだから、其樣な事は無い筈《はず》だ。」
と思ツて種々《いろ/\》と考へて見たけれども、何《ど》うも解らなかツた。それで、
「螢といふ蟲は、籠の中へ入れて置くと、溶《と》けて了うのかしら?」
とも思ツてゐた。何しろ前の晩には一生懸命になツて捕《つかま》へて來たのだから、朝眼が覺《さ》めると直ちに螢籠の中を檢《しら》べて見たが、何時《いつ》の朝だツて一匹もゐた事が無い。で、隨分がツかり[#「がツかり」に傍点]もした。けれども捕《つかま》へる時の愉快な味が忘れられなかツたので、骨折損も充《つま》らないもあツたもので無い。自分は毎夜のやうに、螢征伐に出掛けた。
 或る晩の事、自分は相變らず、密《そつ》と家《うち》を脱出《ぬけだ》して、門の外まで出ると、
「おい、新一や、新一ぢゃないか。」
と呼止《よびと》める人がある。不意だツたから、自分はびツくり[#「びツくり」に傍点]して、
「だアれ……」と闇を透《すか》して見てゐると、
「私《わし》さ。」と確にお祖父樣《ぢいさま》の聲である。
「あツ……お祖父樣。」
「然《さ》うだ、お前、何處《どこ》へ行くんか。」
 豈夫《まさか》に螢狩とにも謂《い》へぬから、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してゐると、
「何か、また螢を捕《つかま》へに行くんぢゃな。」
 的中《てつきり》星を指《さ》されて、自分は忸怩《もじ/\》しながら、默ツて垂頭《うつむ》いてゐた。
 お祖父《ぢい》樣は被蔽《おつかぶ》せて、「それなら、もう止せ、止せ! 幾ら捕へて來たツて、螢といふ奴は、露を吸ツて生《い》きてゐる蟲だから、明《あす》の朝日が出ると、みんな消えて了《しま》うのだ。」
 此《か》うまで謂《い》はれては、自分は默ツてゐる譯《わけ》に行かない。で、
「いゝえ、お祖父樣《ぢいさん》、私は螢を捕《つかま》へに行くのでは無いのです。つい其處《そこ》まで…… あの、お隣家《となり》の太一さんの許《とこ》まで行くのです。」
「嘘《うそ》を吐《つ》け! ハ……。」とお祖父樣《ぢいさま》は、さも面白さうに、併し何か底に意味があるやうに笑ツて、
「其樣《そん》な嘘《うそ》を吐《つ》くもんぢやない。お祖樣《ぢいさん》は能く知ツてゐるぞ。其の螢籠は何《な》んだ、」失敗《しま》ツた! 自分は螢籠を片手にぶらさげ[#「ぶらさげ」に丸傍点]てゐた。此《か》うなツてはもう爲方《しかた》が無い。逃《に》げるより他《ほか》に術《て》が無いから、後《あと》の事なんか考へてゐる暇が無い。自分は些《ちつ》との隙《すき》を見て後《あと》をも見ずにすたこら[#「すたこら」に傍点]駈出した。
 大約《おほよそ》三四町も駈通して、もう大丈夫だらうと思ツて、自分は立停《たちどま》ツて吻《ほつ》と一息した。後《あと》を振向いて見ても誰も來る模樣が無い。そこで安心して、徐々《そろ/\》仕事の支度に取懸ると、其處《そこ》らには盛に螢を呼ぶ聲が聞える。其の聲を聞くと、急に氣が勇むで來て、愉快で耐《たま》らない。それに四方《あたり》の景色《けしき》も好《よ》かツた。五日ばかりの月も落ちて了ツて、四方《あたり》が急に眞《ま》ツ暗《くら》になると、いや螢の光ること飛んで來ること! 其の晩は取分け螢の出やうが多かツたやうに思はれた。蛙も、元氣能《よ》く聲を揃へて啼《な》いてゐる、面白いに取紛《とりまぎ》れて、自分は夢中で螢を追駈廻してゐた。
 自分は何《ど》の位其處らを駈《かけ》ずり廻ツたか、また何《ど》の道を何《ど》うして
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