る。が、前に擧げたもの程、敬意を持つて讀まなかつた。出京後無論國からは送金をして呉れないので、其當時、僕の下宿生活は實に慘憺たるものであつた。九月に出て來て袷一枚で其冬を越したくらゐである。それで[#「それで」は底本では「それて」]、時時悲しいやうな抒情文のやうなものを書いて親父に送り、眞面目に修養すると云ふことを繰り返して云ひ、暗々の中に金の保護を仄めかした。然んな手紙を二三度も送つたが、無論何の効果もなかつた。
 然う斯うする中に翌年の四月、國から義理の叔父が出京して、親父の長い/\手紙を持つて來た。先に送つた僕の悲しいやうな抒情文が父を動かしたのか。或は其抒情文に依つて多少僕の文學的の才を認めてくれたのか、文學者たることを許してくれたと同時に、當座の小遣ひとして金を十圓だけ托送して呉れて、後は月々正式に送ると云ふことである。そして、親父の其手紙に依ると、早稻田にでも入つて、眞面目な修養をなし、文壇に雄飛して呉れいと云ふことである。其時、手紙の中に、其頃毎日新聞に出た、文學者になるの苦しいこと、其生活の困難なことなど書いた論文を切り拔いて同封してあつた。
 親父も許して呉れるし、學資の方の心配もなく、漸く安心して間もなく、恰度其手紙が來てから二週間も經つと、突然親父が病氣だと云ふ報知が來て、驚いて取るものも取り敢へず歸國して見ると親父は死んで居る。僕も、實にがつかり[#「がつかり」に傍点]してしまつた。
 手紙には書いてなかつたけれ共、家の者の話に依ると、親父は僕を愈々文學者にすると決心してから、從來自分の方針を一變して、家政の改革をなし、建てかけて居た家なども中止し、僕の爲めに犧牲になつて、大いに金を溜め、僕の卒業後は獨逸にでも留學させやうと云つた意氣込みで、自分のアツビツシヨンを僕に濺いで、文學の方面に大いに發展させるやうに決心して居たとの事である。
 僕が之れまで、自分の目的に趺蹉に趺蹉を來し、幾度びか斷然吾が志を抛たんと欲して、抛ち得ざるものは、親父の決心を思ふと、僕は飽くまで此の目的を貫徹せなければ生きてはゐられないと、奮然として勇猛心を起すが常だ。これ全く親父の賜である。
 親父は死ぬるし、親族には文學なぞの分る連中はない。皆口を揃へて醫者になれ/\と口やかましく勸める、其四面楚歌の聲の中に立つて、一年ばかりぶら/″\して居る中に、親父の建てた家も、殘した金も滅茶々々になつて、僕は市井の間に埋つて了つた。
 で、父から遺産どころか、荷厄介な遺族を殘されて、未だ力のない者が、其重荷を負ふてよた[#「よた」に傍点]/\と今迄遣つて來たのである。
 それで、父に死別れたのは二十の時で、僕は神經衰弱になるし、不得要領の中に、一年と云ふ長い月日を滅茶苦茶の中に送つて了つて、そして二十一二の春ころまでは、書くでもなく、書かぬでもなく、貸してあつた金を取つたり、家財を賣つたり、誠に混沌たる生活をした。其間田中凉葉なぞと一緒に下宿したが、其中凉葉は紅葉先生の塾に行くし、僕は一人になつてごろツちやらして居たが、それではごろつき[#「ごろつき」に傍点]書生になると云ふので、叔母なぞが心配して、其一年ばかり前から心易かつた桐生悠々君の所へ行くことになつた。
 桐生君は、僕の文學生涯には忘れることの出來ない人で、其所に行くまでは文學が好きであつたが、唯、意味も何も知らずバツとして居た。其時桐生君は法科の二年であつたが、始終シエークスピーヤだとか、トルストイなぞを説いた、僕はそれに依つて泰西の文學を知り、眞面目に文學を研究し眞面目な意味に文學を了解して來て、其所に三四月居る中に、何であつたか書き初めた。
 それで、其時は最う生活費の方は盡きて、桐生君の所を出てから、七月ごろ七軒町へ家を持つて、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居つた。其時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、讀んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に滿ちた生活をして居た。
 其時のことである。名は差支へあつて言はれぬが、某と云ふ。僕の同郷の襌坊主と共に、食ふに困つて托鉢に出やうと云ふので、袈裟や衲衣もすつかり買つて、僕は經なぞ稽古したが、何分俄仕度くなので、どうもうまく[#「うまく」に傍点]覺えられない。それで證道歌の正心銘を紙に小さく書いて、笠の裏へ張つたものである。そして、市内では巡査が喧ましいから、府下を歩かうと云ふので、明日から愈々托鉢に出ると云ふことまですつかり定めて、總ての準備は整つたが、都合があつて止して了つた。
 それから、何うしても、書かねば食へないやうになつて初めて書いたものが、「一つ岩」である。
 次に書きかけたのは、長いものであつたが止して、其中に「埋れ井戸」と云ふもの
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