、目的ともしてゐたのだが。」と考へて來て、忌々《いま/\》しさうに地鞴《ぢたゝら》を踏みながら、
「何うして?……え、何うして林檎が喰ひたいのだ。そりや林檎は、血の糧《かて》だ! 血の糧には違ないが、其の血が脈管に流動するといふことが、軈《やが》て人間の苦惱を増進させるのぢやないか。」
氣が付くと彼は何時か、解剖室の入口から少し外れて傍の方へ――其のまゝ眞ツ直に進むだら、楢《なら》や櫟《くぬぎ》の雜木林へ入ツて了ふ方向に、フラ/\と、恰《まる》で氣拔でもした人のやうに歩いて行く。一平は、解剖室の窓から、妙な顏を突出して、不思議さうに風早學士の樣子を眺めてゐた。學生等は、大概其樣な事には頓着しないで、ヅン/\解剖室へ入ツて行く。
人が足を踏入れぬところは、何處でも雪の消えるのが後れるものだ。風早學士は、何時の間にか其の雪の薄ツすりと消殘ツてゐる箇所《ところ》まで來て了ツた。管《かま》はず踏込むで、踏躙《ふみにじ》ると、ザクザク寂《しづか》な音がする……彼は、ふと其の音に耳を澄まして傾聽した。ふいと風が吹立ツて、林は怯《おび》えたやうに、ザワ/\と慄《ふる》へる……東風《こち》とは謂へ、尚《ま》だ雪を嘗《な》めて來るのであるから、冷《ひや》ツこい手で引ツぱたくやうに風早の頬に打突《ぶツか》る。風早學士は、覺えず首を縮《ちぢ》めて、我に返ツた。慌てて後へ引返さうとして、勢込むで踵《きびす》を囘《かへ》す……かと思ふと、何物かに嚇《おどか》されたやうに、些《ちよツ》と飛上ツて、慌てて傍へ飛退《とびの》き、そして振返ツた。
其處には斑猫《ぶちねこ》の死體が轉ツてゐたのだ。眼を剥《む》き、足を踏張り齒を露出《むきだ》してゐたが、もう毛も皮もべと[#「べと」に傍点]/\になツて、半ば腐りかけてゐた。去年から雪の下になツてゐたものらしく、首には藁繩が絡《から》みつけてあツた。
一目見ただけで、風早學士は竦然《ぞツ》とした。そして考へた。
「此の猫だツて、誰かに可愛がられて、鼠を踏んまへて唸《うな》ツたことがあるのだ……ふゝゝゝ。」と無意味に、冷《ひやゝか》に笑ツて、
「ところが、ふとした拍子《ひやうし》で此樣な死態《しにざま》をするやうになツた……そりや偶然さ。いや、屹度《きつと》偶然だツたらう。何んでも生物の消長は、偶然に支配されて、種々《さまざま》の運命を作ツてゐるのだ……俺が此樣な妙なことを考へてゐるのも偶然なら、此樣な事を考へるやうになツた機會も偶然だ。※[#「人」偏に「尚」、第3水準1−14−30、231−下段7]《もし》俺が此處で頓死したとしても、其も偶然だし!……」
と、考へて來て、ふと解剖室の方を見る。破れた硝子《ガラス》に冷い日光《ひかげ》が射して、硝子は銅のやうな鈍い光を放ツてゐた。一平は尚だ窓から顏を出して、風早學士の方を見詰めて皮肉な微笑を漂《うか》べてゐた。
風早は其と見て、「一平か。いや慘忍な奴さ。金さへ呉れたら自分の嬶《かゝあ》を解剖する世話でもするだらう。だが學術界に取ツては、彼樣な人物も必要さ。一箇人としては、無意識な、充《つま》らん動物だけれども、爲《す》る仕事は立派だ……少くとも、此の學校に取ツては無くてはならん人物だ。」
此《か》くて彼は解剖室へ入ツた。
解剖室の空氣の冷い! 解剖臺==[#2文字分のつながった2重線]其は角《かど》の丸い長方形の大きな茶盆のやうな形をして、ツル/\した。顏の映るやうな黒の本塗《ほんぬり》で、高さは丁どテーブル位。解剖臺のテーブルの上には、アルコールの瓶だの石炭酸の瓶だの、ピンセットだの鋸《のこぎり》だの鋏《はさみ》だの刀《メス》だの、全て解剖に必要な器械や藥品が並べてある。解剖臺には、解剖される少女の屍體が尚だ白い布《きれ》を被《かぶ》せたまゝにしてあツた。學生等は解剖臺を繞《めぐ》ツて、立ツて、二人の助手は何彼《なにか》と準備をして了ツて、椅子に凭《もた》れて一と息してゐる。處へ風早學士がノソリと入ツて來た。
彼は直《すぐ》に解剖臺の傍に立ツた。一平は、つツと立寄ツて白い布を除《と》る……天井の天窓《あかりまど》から直射する日光は、明《あきらか》に少女の屍體を照らす……ただ見る眞ツ白な肌だ! ふツくりとした乳、むツつりした肩や股《もゝ》、其は奈何《いか》に美しい肉付であツたらう。少女は一週間ばかり腹膜炎を病むで亡くなツたといふのであるから、左程衰弱もしてゐない。また肉も※[#「削」の偏は肖でなく炎、第3水準1−14−64、232−上段12]《こ》けてゐなかツた。濃い、綺麗な頭髮《かみ》は無雜作につくね[#「つくね」に傍点]てあツて、眼はひた[#「ひた」に傍点]と瞑《つぶ》れてゐる。瞼、生際《はえぎは》、鼻のまはり、所謂《いはゆる》死の色を呈して、少し
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