ツたといふ嫌《いや》な噂のある家だ。其處に彼は、よぼよぼした飯焚《めしたき》の婆さんと兩人《ふたり》きりで、淋しいとも氣味が惡いとも思はずに住ツてゐる。そして家へ歸ると直に、澤山の原書を取ツ散かした書齋に引籠《ひきこも》ツて、書《ほん》を讀むとか、思索に耽るとか、設《よし》五分の時間でも空《むだ》に費やすといふことが無い。他《ひと》から見れば、淋しい、單調な生活である。
 此の沒趣味な變人が、不圖《ふと》たツた[#「たツた」に傍点]一ツ趣味ある行爲を爲るやうになツた。といふのは去年の冬の初、北國の空はもう苦《にが》りきツて、毎日|霰《あられ》の音を聞かされる頃からの事で。風早學士は、毎日林檎を一ツポケットへ入れて來て、晝餐の時には屹度《きつと》其の林檎の皮を剥《む》いて喰ツてゐる。寒さの嚴しい日などは煖爐[#底本では「煖燼」の誤り]に※[#火偏に「共」、第3水準1−87−42、228−上段22]《あぶ》ツて喰ツてゐることもあツた。唯喰ツてゐると謂ツては、何んの意味も無ければ不思議も無いが、其が奈何《いか》にも樂しさうで、喰ツてゐる間、氣も心も蕩々《とけどけ》してゐるかと思はれた。子供ではあるまいし、誰にしたツて舌に快味を感ずるばかりで其樣な眞似が出來るもので無い。そこで其の事件が職員室で「林檎の謎」といふ問題となツた。
「自然の謎」を探る生物學者は其の同僚から「林檎の謎」を探られるやうになツた。さて此の謎は、風早學士が外部から受けた刺戟の反應で、此の反應に依ツて、風早學士の内部に非常な變動があツた。實をいふと學士は、此の町に來てから、其の峻烈な寒氣も、其の莊重な自然も、また始終《しよつちゆう》何か考へてゐるやうな顏をしてゐる十萬に近い町の民も、家も樹も川も一ツとして彼の心を刺戟する物が無かツた。彼の心は、例に依ツて淋しくも無ければ、賑《にぎやか》でも無かツた。で讀書と思索とが彼の友となツて格別退屈もせずにゐた。
 然るに或る霧の深い朝のことで。風早學士は、外套の襟《えり》を立て、肩を竦《すく》め白い息を吐きながら、長い脚に靴を穿《は》いて家を出た。そして何時ものやうに、「人間の爲ること考へてゐることに要領の得ぬことが多い。」などと考へながら、泥濘《ぬか》ツた路をベチヤンクチヤン、人通の少ない邸町から==[#2文字分のつながった2重線]其處には長い土塀が崩れてゐたり、
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