少しも不思議ではない。腹が減って仕方がなくなると、誰にしたって夜鷹のように餌を拾いに出掛けなければならない。だが――一つ驚いたことに、大連のかわりに、黒眼鏡がすぐ傍で、大安坐《おおあぐら》をかいて、黒パンの大きな塊りを片腕に抱え込んで、それを襤褸巾《ぼろきれ》のように引き裂いて、豊かに頬張っていた。
左官は頬ペタから、骨が抜け出るほど青くなって、そのまま縮んでしまった。
「おい! 若いの。眼が醒めたか?……ところでお前は馬鹿だな。何んで昨日は俺にむかって来たのだ」
そら! 左官はまるで針鼠のように震えあがってしまった。黒眼鏡は唾の足りない口から、パン屑をぼろぼろこぼしながら、ゆっくり責め抜こうとするのかも知れない。
「時計屋はな。お前。魂のかわりに、こんどは骨ぐるみさらって行かれそうな声をたてて***********おとなしく待ってらあ、手前にも*********有りつかすんだったのに! 馬鹿だなあ」
左官は驚いた。こんな筈である道理がない! 彼はそろそろ首を伸ばした。
黒眼鏡は何んとも思ってはいないのだ。かえって彼のあの気狂い染みた突嗟の気持を、まるで憫笑しているのだ。でも、左官はさように遺恨も含まずに、憫笑する黒眼鏡の気持がまるで判らないと考えた。
「ほら、喰え!」
どたりと引き裂いた黒パンの塊を、彼の頭を目蒐《めが》けて投げ出した。
「この男はまるで、俺たちを歯牙にかけていないのだ。まるで太平洋のような度胸だな」
単純で感じ易い左官は、涙にあふれるような感動を我慢して、黒パンの塊に手を伸ばした。
「どう考えても、黒眼鏡の気持は判らない」
左官は自分の芥子粒《けしつぶ》みたいな肝ッ玉に較べて、そう考え悩まずにはいられなかった。
尊敬の念が、油然《ゆうぜん》と湧いて来た。
支那服は野良犬の塩焼きと、一升ほどの高粱酒《カオリャンチュ》を相宿の連中に大盤振舞いして酔つぶれた翌朝から、ずっと姿を見せなかった。
「支那服と黒眼鏡は、一体どうして食っているんだろう?」
彼は不思議に考えた。だが、二人の存在は左官の貧弱な想像力では、壁坪を測り出すようには、雑作なく想像することはできなかった。そんなことを考えているところへ、当の支那服がのっそり帰って来た。油だらけの新聞紙をほごすと、焼きたてのロースビーフが、碁盤のように転がり出た。素晴らしい匂いが鼻から尻の穴へ抜け出るようだった。
「よう! 素敵じゃあねえか」
この二人はいつでも肌身はなさず短刀を身につけていると見えて、黒眼鏡は食いかけの黒パンの破片を抛り捨てると、早速に支那服と向い合って短刀の刃でロースビーフの角を切り落して、頬ばり始めた。口中を油だらけにして、旨そうに眼玉を白黒させた。
「黒パンに、生胡瓜か。見っともない真似はよせよ! まさかにどぶ鼠[#「どぶ鼠」に傍点]じゃあんめえし……」
支那服が、皮肉に黒眼鏡を笑殺した。
「糞! 抜かすな」
黒眼鏡はそんな皮肉に応酬するよりも、咽喉一杯に、雑巾のように押し込んだビーフに手古擦《てこず》っていたのだ。
ふと、支那服が左官を見つけて、思い出したように言った。
「おい! 手前は昨日、ほら門前のロシヤ人の酒場で酔いつぶれたろう。大連はお前、たった今、領事警察に引っこ抜かれたぞ! ここらの『白』は皆んなスパイだ。滅多なことは喋舌《しゃべ》れねえんだ。それに気を配ばらずに、小僧っ児みたいな、気焔をあげるのが、ドジさ。大人気ない話よ。網んなかで跳ね廻わるようなもんじゃねえか。馬鹿な」
だが、左官は皆目、その支那服の言った意味が解らなかった。
「ほう。社会主義者だったのか。彼奴が」
黒眼鏡が興味深く訊き返えした。
「社会主義者だって、何れ大したもんじゃああんめえよ!」
支那服も黒眼鏡も、それっきりその話をやめてしまった。そして喰うだけ喰うと、二人は連れだって、暮れかかった街に出て行った。
「まるでこっちとらとは、泥亀とすっぽんほどの違いだ。豪気なもんだ」
左官は、暗くなった部屋のなかで、ビーフの食い残しをつまみあげながら呟いた。
彼等と擦れ違いに、時計屋が洞穴《ほらあな》のように糜《ただ》れた眼玉を窪ませて帰って来た。
「骨ぐるみかッさらって行かれそうに、********!」
左官は黒眼鏡の言葉を思い出して、こみあげてくる笑いを殺すことが出来なかった。
二人は彼等の喰い残しのロースビーフに噛りついたのが、御馳走の最後だった。
それっきり支那服も、黒眼鏡も帰って来なかった。無論のこと大連も、それっきりだった。――
時計屋と左官の上には、がらりと生活が向きをかえた。二人の上には再び、あのにぎやかな生活が帰らないのだ。零落と流浪の絶望が眼に見えない手を拡げ始めた。
左官には、大連の情熱に満ちた夢がなか
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