シベリヤに近く
里村欣三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)刃疵《きず》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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        一

「うむ、それから」
 と興に乗じた隊長は斜な陽を、刃疵《きず》のある片頬に浴びながら、あぶみを踏んで一膝のり出した。すると鞍を揉まれたので、勘違いして跳ね出そうとした乗馬に「ど、どとッ、畜生」と、手綱をしめておいて、隊長は含み笑いに淫猥な歯をむいて
「それから」
 と、飽くまで追及して来た。
 軍属の高村は、ひとあし踏み出して乱れた隊長の乗馬に、自分の馬首を追い縋って並べ立てながら
「は」
 と、答えておいて、あ、は、は、は、はッと酒肥りのした太腹を破ってふき出した。
「隊長殿。これ以上には何んとも」
 彼は恐縮したように、まだ笑いやまない腹を苦し気に、片手の手綱をはずして押えた。
「何故じゃ、高村」
「は、そう開き直られますと、猶更もって…………」
 隊長はちょっと不快な顔をした。「軍人はだ。昔しから野暮なもんと相場がきまっとる。徹底するところまで聞かんことには」
「お気に召しましたか?」
 ふいに隊長は濶達に、日焦けのした顔を半分口にして笑いたてた。
「あ、は、は、はッ」
 チリ箒のような口髯が、口唇の左右一杯にのびて、それが青空に勇ましく逆立った。
 乗馬が、ぽかぽかと土煙をあげた。――
 空の青い、広漠たる曠野だった。が、もう何処かに秋の気が動いていて、夏草の青い繁みに凋落の衰えが覗われる。白い雲の浮游する平原のはてには、丘陵の起伏がゆるやかなスカイラインを、かっきりと描き出して、土ほこりの強い路が無限の長さと単調さで、青草の茫寞たるはてにまぎれ込んでいた。
 乗馬は馬首をならべて、黙々とその蹄鉄のひびきに、岱赭《たいしゃ》色の土煙をぽかぽかと蹴たてながら忍耐強い歩みを続けていた。
 またしても隊長が、日焦けのした赭黒《あかぐろ》い顔をこちらにむけて、高村に呼びかけた。
「おい、高村! まだ他に面白い話はないか?」
「はッ」
 彼は当惑そうに顔をあげて隊長を見た。
「こう毎日毎日、単調な原ッぱを、女気なしに汗臭い輜重車《しちょうしゃ》を引きずり廻して暮すんじゃ、面白うないわい」
 そして隊長は、ぺっと乾いた唾液を、馬の脊越しに吐き捨てた。
 ずっと後れて、土煙りが朦々と青空に立ち罩めて、幾台も幾台もの輜重車が躍ったり、跳ねあがったりして困難な行進をつづけていた。苦力《クーリー》どもの汗みどろな癇癪でのべつにひっぱたかれる馬どもが、死にもの狂いの蹄で土煙を蹴立て、蹴あげて、その土煙から脱れようとして藻掻き廻っていた。が、結局それは藻掻き廻わるだけ、それだけ土煙の渦に巻き込まれる結果になった。
 それは一目で、困難な行進であることが察せられた。
 下士が土煙のなかに馬を乗り入れては、遅れたり、列を乱したりする苦力達を、我鳴りつけ怒鳴り立てていた。そしてその行進の一切が、岱赭色の土煙のなかに呻めき、喘いでいるのだった。
「は、はあ、奴等もがき廻っとる」
 隊長は満足そうに笑つた。「可哀そうなものさ。的のない戦争に、来る日も来る日も引きずり廻わされて」
「いや、なあにそんなもんでは有りませんよ。支那人という奴は、金にさえなれば、どんな我慢でもしますよ」
「いや、高村。支那人はそれでいいとして日本の兵卒があれでは堪まるまいって※[#疑問符感嘆符、1−8−77] この土煙のなかを引きずり廻わされて、ぼろい儲にありつくのは君一人さね、あ、は、は、………………」
 隊長は眼のなかへ飛び込んで来る土煙を、ハンカチで払いのけながら、濶達に笑った。
「これは御冗談で……ぴっしりと経費を切り詰められていますので、なかなか儲けどころの騒ぎではありませんよ。隊長!」
「あ、は、はッ。ままいい。君たちの商売は儲けと奉公が一致するんだからね」
「いやあ、これは一本まいりましたね」
 高村は関羽鬚を揺すって、高笑した。「どうです。一口ウォツカでも…………」
 彼は乗馬ズボンの腰を叩いて、隊長の気を引いた。
「うむ。忍ばしているのか。よし行こう」

        二

 明けても暮れても単調な、だだっぴろい眼を遮切るもののない曠野である。何日間歩きつづけても、それは出発の時と少しも変りのない、雲と密着した青い地平線が意地悪く、その行手に弧線を描いていた。
 隊長は退屈で堪まらなかった。聞えるものは終日、油のきれた輜重車の軋みと、ひき馬の鉄蹄と、鞭と、兵卒の怒号と、苦力の怒罵とであった。それが更に濛々と立ち罩め、吹き靡《なび》く土煙の汚なさに云いよ
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