ばれるであらう。すべて表現的なものは形を有してゐる。全體は論理的であると共に直觀的なものである。カントは人間理性は建築的であるといつたが、構想力こそ技術的なものといはねばならぬであらう。
 技術は因果論と目的論との統一であるが、かやうな統一がまた我々の思惟の基礎であると考へられるであらう。ラシュリエは『歸納法の基礎』の中で、自然法則の概念は二つの區別される原理に基づくと論じてゐる。その一つの原理は、それによつて諸現象が系列を形作り、この系列において先行のものの存在が後續のものの存在を決定する。いま一つの原理は、それによつてこれらの系列がまた體系を形作り、この體系において全體のイデーが諸部分の存在を決定する。ところで他の現象をこれに先行することによつて決定する現象は運動原因と呼ばれるものであり、そしてその諸部分の存在を作り出す全體は、カントに依ると、目的原因である。かくて歸納法の可能性は運動原因と目的原因との二重の原理に基づく、とラシュリエは論じてゐる。もとより二つの原理が別々に自然のうちにあるわけではないであらう。そこで自然のうちにも因果論と目的論との統一があるとすれば、自然も技術的であるといふことができるであらう。カントも「自然の技術」といふものを考へた。經驗的法則は甚だ多樣であり、それに合する自然の形態も極めて異質的である、けれども我々はそこに一個の體系を前提し、經驗的法則の體系的聯關を考へる。かやうにして判斷力にとつて特殊的なものを、同じく經驗的な、しかし一層一般的なものに包攝してゆき、遂に最高の經驗的法則及びそれに合する自然の形態に包攝するといふことが可能になる、かやうにして特殊的な經驗の堆積を經驗の體系として考察するといふことが可能になる。そこに自然の合目的性が考へられるのであつて、自然は技術的であるといはれるのである。ラシュリエのいふ歸納法の基礎もそこに考へられるであらう。尤もカントに依ると、自然の合目的性は、先驗的原理であるにしても、範疇の如く自然の成立の根據になるものではなく、我々が自然を考察する仕方に關係してゐる。それは規定的判斷力ではなくて反省的判斷力に屬してゐる。しかし既にラシュリエの如く目的原因に運動原因と少くとも同等の權利を認めるとすれば、自然の技術といふものにも實在的意味が認められるであらう。自然の技術もカントにおいては主として知識の立場から考へられた。しかるに技術そのものは行爲の立場から捉へられることを要求してゐる。知識の問題も元來行爲的・形成的立場において見らるべきものである。自然の技術といふとき、自然そのものが形成的であるのでなければならぬ。そしてもし技術の論理が構想力に屬するとすれば、構想力の論理は世界形成の論理であることになるであらう。このやうな世界の論理は論理的であつて直觀的である。



底本:「三木清全集 第四巻」岩波書店
   1967(昭和42)年1月17日発行
底本の親本:「知識哲學」小山書店
   1942(昭和17)年3月発行
初出:「知性 三月号」河出書房
   1941(昭和16)年3月
入力:Juki
校正:川山隆
2007年4月28日作成
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