Kr. d. r. V. A 124)。かやうにしてカントは構想力は感性と悟性とを媒介するものと考へた。形式論理において主語が述語に包攝されるといふやうな述語的綜合とは異る眞理的綜合は感性と悟性との綜合でなければならず、かやうな綜合は構想力によつて可能になるのである。論理と直觀との結合は構想力において見出されるといひ得るであらう。構想力そのものは直觀的である、それは直觀的であつて論理的であるといひ得るであらう。創造的或ひは發見的であるべき認識は構想力の媒介に俟たなければならぬ。
元來、思惟とは如何なるものであらうか。思惟が可能であるためには、ラシュリエのいつた如く、二つの條件が必要であると考へられるであらう。第一の條件は、我々の感覺の各々から區別される主觀といふものの存在である。なぜなら、もしこれらの感覺だけが存在するとしたら、それらは悉く現象と混じ、從つて我々自身或ひは我々の思惟と呼び得るやうな何物も殘らないであらうから。第二の條件は、我々の感覺の同時的竝びに繼起的多樣のうちにおけるこの主觀の統一である。なぜなら、各々の現象と共に生れまた滅びる思惟は我々にとつてやはり現象でしかなく、そしてこれらの分散した一時的な思惟のすべてを眞の思惟の統一にもたらすために我々は新しい主觀を必要とするであらうから(Oeuvres de Jules Lachelier, I 49)。ラシュリエが擧げた第一の條件は我々自身の統一を意味してゐる。そしてカントのいふ先驗的統覺はまさにこの條件に應ずるものである。先驗的統覺は自己意識であり、自己の同一性の意識である。これなしには如何なる認識も不可能であるとカントは考へた。しからば我々は如何にしてこの我々自身の統一の意識を有し得るであらうか。ここに我々はデカルトを想ひ起すことができるであらう。デカルトが「私は考へる、故に私は在る」といふとき、そのやうな自己意識或ひは自覺を意味したと見ることができるであらう。そしてこのデカルトの命題は推理ではなく直觀的に自證されるものとすれば、かかる直觀がおよそ思惟の可能になる條件でなければならぬ。しかしデカルトの自己は論理的に見ると未だ分析的統一であるといはれるであらう。思惟の可能の條件として要求されるものはこれに反して綜合的統一である。如何にして我々は我々自身の統一の意識を有し得るかを説明するだけでは足りな
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