の對象は綜合的手續であるといふとき、やはり同じ問題が含まれてゐる。「種々の表象は分析によつて一つの概念のもとに[#「のもとに」に傍点]もたらされる(これは一般論理の取扱ふ仕事である)。しかるに表象ではなくて表象の純粹綜合[#「純粹綜合」に傍点]を概念へ[#「へ」に傍点]もたらすことを教へるものは先驗論理である」(Kr. d. r. V. B 104)。綜合といふ場合、直觀の多樣が豫想されてゐる。單なる論理的反省がただ概念に關はり、分析的であるに反して、先驗的反省は直觀の問題と結び附いてゐる。「我々が單に論理的に反省するとき、我々はただ我々の概念を悟性において相互に比較する、即ち二つの概念はまさに同一のものを含むかどうか、兩者は矛盾するかそれともしないかどうか、或るものが概念のうちに内的に含まれるのかそれともそれに附け加はつてくるのかどうか、また兩者のいづれが與へられたものとして、いづれが與へられた概念を思惟する一つの仕方に過ぎぬものとして、認めらるべきであるか、と」(Kr. d. r. V. B 335)。これに反して先驗的反省は、我々が取扱ふのは感性的對象であるかそれとも悟性の對象であるかといふことに關はり、そして單に悟性の對象が問題である場合、それによつては何物も認識されないのである。認識は綜合であり、先づ直觀の多樣が與へられねばならぬ。分析は我々がもつてゐる概念を明瞭にするにしても、それによつて我々の知識が増したといふことはできない。眞の意味における認識は、それによつて我々の知識が増すのでなければならぬ。言ひ換へると、眞の認識は創造的或ひは發見的である。かやうな認識は綜合的である。創造的なものは綜合的なものである。ところでカントに依ると多樣の綜合は悟性の所作ではなくて構想力の所作である。表象の純粹綜合は生産的構想力に屬してゐる。多樣の綜合を概念的統一へもたらすものはもとより悟性もしくは先驗的統覺であるが、綜合そのものは構想力の作用であり、統覺の統一はこれを前提しなければならない。統覺は悟性として構想力の綜合の上に働くのである。現象の多樣は構想力の綜合によつて統覺の統一に合致するやうに覺知される。「多樣の、統覺の統一に對する關係によつて、概念が生ずる、概念は悟性に屬する、しかしそれが感性的直觀に關して成立し得るといふことは構想力の媒介を俟つて初めて可能である」(
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