の存在的な關係そのもののうちに横たはつてゐると考へられる。無限な神と有限な人間との間には存在上如何なる比例もないところに、人間の神に對する關係も定められてゐる。このやうな考へ方とは反對に、認識論上の不可知論は認識の規定から絶對者への道を取る。カントはかかる道において物自體(Ding an sich)は知り得ないといふ不可知論的な方向を示してゐる。イギリスの學者ハミルトンは、カントの影響のもとに、内的經驗といふ意識の事實においてはつねにただ有限なものが有限な諸關係において我々の認識に達するのみであり、この意味において人間の知識は有限なものの經驗に限られるとした。無限なもの、絶對的なものは認識すべからざるものである。この不可知論は一方ではマンセル、他方ではスペンサーなどの哲學においてひとつの重要な役割を演じ、イギリスの哲學の上に絶えず投げられてゐる顯著な陰影である。ところで我々にとつて重要なことは、認識論的哲學がこのやうに認識の問題を實在の問題に必ず先立つべきものであるとし、前者の解決を後者の解決に缺くべからざる先決條件とするところから、進んで、實在の問題に對する、いな、一般に存在の問題に對する無頓着を示す傾向をおのづから含んでゐるといふことである。存在の問題への無關心、延いてはその積極的な除外が認識論的哲學における注意すべき偏向であると見ることができる。
 かくて存在からの距離といふことはいはゆる認識論の一般的特徴である。これは認識論といふ語に論理學(Logik)といふ語が置き換へられるとき最も鋭く現はれるであらう。この置き換へはしばしば行はれ、現代において論理學といふとき、認識論を意味してゐることはしばしばである。例へば、ヘルマン・コーヘンの『純粹認識の論理學』(Logik der reinen Erkenntnis)といふ書物は認識論の書物である。このやうに論理學と認識論とが同義の學問と看做されることは極めて普通になつてゐる。
 さて右の敍述から我々は次のやうにいふことができる。第一に、含蓄ある意味における認識論は自然科學と絶えず密接な關係をもつて構成された。そこで同じ認識の理論であつても、その理論の構成の地盤が自然科學でなく、歴史的社會的存在に關する科學の方へ移されることになれば、認識論といふ特殊な意味の學問はもはや次第にその存在の獨立性を失つてゆくことにならう。そして實際ヘーゲルの後、彼の形而上學は勢力を失墜しはしたが、彼の哲學の精神は科學の座標において分解され、かくして歴史科學及び社會科學の著しい發展を喚び起した。ここにこれらの科學の認識の理論が特に問題にされることとなり、それと共にいはゆる認識論は次第に解消されることとなつた。ヴィルヘルム・ディルタイの生の哲學(Lebensphilosophie)がこの傾向を代表するであらう。しかるに第二に、認識論においては認識の理論が存在の理論から游離するといふ自然的な傾向がそのうちに含まれてゐた。それだから、いまもし何等かの意味で存在の問題が再び重要視されるに到るや否や、いはゆる認識論といふ特殊なものは、他のものに變形してゆかねばならぬ。カント以前の哲學、特にデカルトの哲學に接近を求めていつたところのエドムント・フッサールの現象學(〔Pha:nomenologie〕)において我々は既にかかる傾向のひとつを見出し得るであらう。
 これまでに明かにして來たことは、認識論の歴史性といふことに盡きる。最近に至るまで哲學において支配的であつた認識論的傾向はそれ自身ひとつの歴史的なものである。從つてそれはそれ自身のうちに或る前提、或る先入主見、或る偏向を含んでゐる。これらのものを明るみに出すことが今や哲學そのものの發展のために要求されてゐると思はれる。私のこの小さい解説的研究はその目的のために許される限りにおいて仕へねばならなかつた。もし認識論といふものを廣い意味に解し、その歴史的制約を除いて考へるならば、かかる意味での認識の理論一般はいはば哲學と共に古く、いつの時代にも、いかなる哲學のうちにもつねに包まれてゐたところのものである。それは理論哲學一般とその範圍を同じくする。それは例へばギリシアの學問が學問を物理學、倫理學及び論理學の三つに區分したといはれる場合の論理學にあたるものであらうが、このとき論理學はギリシアの學問において近代におけるそれとは全く違つた意味をもつてゐたのである。
 いまや我々は認識に關する理論をいはゆる認識論の偏見から解放しなければならない。そのためには我々は存在の問題に深く入つてゆくことが必要であると考へる。認識の問題を存在の問題のうちに排列するといふ方向へ我々は進んでゆくべきであらう。



底本:「三木清全集 第四巻」岩波書店
   1967(昭和42)年1月17日発行
底本の親本:「知識哲學」小山書店
   1942(昭和17)年3月発行
初出:「大思想エンサイクロペヂア 第二巻「哲学」」春秋社
   1930(昭和5)年1月発行
入力:石井 彰文
校正:Juki
2007年2月20日作成
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