知力はつねに或る利益のために、或る實際上の要求を滿足させるために知らうとしてゐる。それはいつでも行爲との關係において物を見てゐる。それだから概念といふものは我々が物に對して行爲するための一定の型であつて、我々の行爲及び態度の種々の種類があるだけ、それだけの種類の概念的方向があるといふことができる。概念は行爲にとつてその物が如何なる意味を有するかを表はすためにその物に貼りつけられたレッテルの如きものである。
 いまプラグマティズムの意味を正しく評價するために、とりわけ次の二つの點に注意することを忘れてはならない。第一に、ジェームズやベルグソンは認識の問題をただそれだけとして取扱ふことなく、それを具體的な存在の問題の中に排列しようとしてゐる。ジェームズはこのことを彼の根本的經驗論(radical empiricism)と稱する立場によつて意圖してゐる。ここにいふ經驗は自己包括的な一の全體である。知るといふことにおいて、知るものと知られるものとは共に經驗の部分である。從來の認識論の根本概念である主觀客觀はこのやうに見られねばならぬ。それみづから經驗の部分であるところの觀念は、我々を助けて經驗の他の部分と滿足な關係に入らせる限りにおいて眞となる。いな、我々が眞とする思想は、まさに我々の經驗のひとつの契機である故に、我々はその指導によつて我々の經驗の他の契機と有效な結合をなし得るのである。ベルグソンもまた知識の理論は生の理論と分離さるべきでないと考へる。彼はいふ、知性を生の一般的進化のうちに置かぬ知識の理論は、如何に知識の框が構成されてゐるか、如何にして我々がそれを擴げ或ひはそれを越え得るかを我々に教へぬであらう、と。知識は生のひとつの現はれ方にほかならない。ベルグソンは生を純粹持續に象どる。純粹持續といふのは連續的な創造的な發展であつて、その本質において緊張である。緊張があれば、その反面に弛緩があらう。弛緩があるとき、生は自己を擴散して、横斷的な空間的な關係に竝置せしめられる。このやうにして成立するものが物質の世界である。ところで概念的知識は物を竝置的な、空間的な關係において見ることを本性としてゐる。それ故に概念的知識と物質的世界とは同じ根源のものであつて、共に純粹持續の弛緩にもとづく、とベルグソンは考へる。第二に、ベルグソンの生及びジェームズの經驗はいづれも原子論的(atomistisch)に把握されてゐないことを特色としてゐる。從來のイギリスの經驗論哲學の基礎にはいつでもヒューム流の心理學が横たはつてゐた。ヒュームにおいて經驗はばらばらの感覺的要素から構成された寄木細工に過ぎない。この經驗要素たる印象は物理的な原子のやうに各自獨立の存在と明確な輪郭とをもつてゐる。そしてこれらの印象の色褪せた模寫であるところの觀念も同じやうに相互に分立的である。諸印象竝びに諸觀念の間になんらかの關係があるとすれば、それは單に考へられた關係であつて、實在するところの關係ではない。因果關係の如きも屡々反覆して繼起するところの現象を期待する精神の後天的な習慣の結果である。等しくプラグマティズム的な見方を含む思惟經濟(〔Denko:konomie〕)の學説は、まさにこれに類する考への上に立つてゐる。思惟經濟説はマッハやアヴェナリウスなどによつて唱へられ、主として自然科學者の間に追從者をもつてゐる。認識の目的は最も經濟的に思惟するにある。マッハはいふ、學問は最小限の思惟消費をもつて能ふ限り完全に事實を記述することを目的とする。キルヒホフの有名な言葉によると、自然科學の任務は、自然において行はれる現象をできるだけ完全に、できるだけ簡單に、記述することである。クライビヒも、思惟作用は、思惟對象の最大量が思惟内容の最小量をもつて表象され、評價され、推論式で組み立てられるやうに、計畫的に行はるべきである、といつてゐる。ところで直觀は單に一々の個物を捉へ得るにとどまる。概念によつて一擧にして多くの事物の考察に達するといふことは思惟の仕事である。個物の直觀に代へるに概念の思惟をもつてすることによつて我々は一々の個物を相手にするといふ不經濟から免れることができる。しかしそれと同時に概念を思惟することにおいて我々のもつものはつねに個物の直觀でなければならない。もしさうでないならば、我々の認識は事實を離れることになつてしまふであらう。しからば直觀的個物から如何にして概念的な思惟に到達し得るのであるか。思惟經濟説の見方によると、我々はひとつの個物によつて他の多くのそれと類似の物を代表させるのである。存在するのはただ直觀的な個々の表象のみであつて、あらゆる思惟はそれにおいて或ひはそれを通して行はれる。そしてこれらの個々の表象をすべてに亙つて考へるといふことは實際に不可能であるばかりでなく、よし可能であるとしてもこれを行ふといふことは極めて不經濟であるから、我々はひとつの表象を特に選んで他の多くの表象の代表者にする。かくして選ばれた個物は他の表象を代表する限り同時に一般的でなければならぬ。一般的なものはこのやうにして思惟經濟の必要から生じた人工概念に過ぎない。この種の考へ方とは違つて、ジェームズのいふ經驗は相互に獨立な感覺要素の寄り集つたものではなく、それみづからにおいて根源的な關係を含む諸感覺の結合である。關係も感覺と同じく根源的に與へられる直接の經驗に屬してゐる。ベルグソンにおいても純粹持續の各々の瞬間は過去を含み未來を孕むと考へられてゐる。
 これら二つの思想はまたディルタイに共通してゐるであらう。ディルタイによると、感覺の多樣は結合の意識から離れては單に表象され得ないばかりでなく、むしろ存在し得ない。シュトゥンプもいふ如く、諸感覺のうちには直接にまたその秩序が内在的な特性として共に與へられてゐるのでなければならぬ。我々の經驗の内容の内における秩序或ひは形式の内在といふことは經驗の事實そのものの示すところである。比量的な思惟作用の第一次的な形式の根源を尋ねて、我々は知覺のうちに含まれ、このものの知的性質を形作つてゐるところの諸過程にまで溯ることができる。このやうな諸過程は比較、區別、結合、分離の如きものである。これらのものは基本的な論理的諸作用である。一般的にいつて、私がその背後に溯り得ぬ生そのものは、それにおいてやがて一切の經驗及び思惟が顯はになるところの諸聯關を含んでゐる。そして實にそこに認識の全體の可能性にとつて決定的な點が横たはるのである。生と經驗のうちに、思惟の諸形式、諸原理及び諸範疇において現はれる全聯關が含まれる故にのみ、この全聯關が生と經驗において分析的に示され得る故にのみ、現實の認識は存在するのである。もし現實的に表象過程が思惟過程から全く區別されてゐるとしたならば、論理的諸形式及び諸原理の單なる分析でさへもがすでに不可能であらう。表象と思惟とは二元的に對立するものでなく、そこには一つの發生的な過程がある。形式論理學は表象と思惟といふ我々の認識根源の二元性を前提してゐる。ディルタイが分析的論理學(analytische Logik)と稱するところの論理學の目的は、現實の經驗の構造聯關を分析することによつてかかる二元的な見方を越えるにある。
 ディルタイはあらゆる存在は我々の體驗の事實として與へられると考へる。およそ私にとつてそこに在るものは私の意識の事實であるといふ最も一般的な條件のもとに立つてゐる。如何なる外的な物も私にとつてはただ意識の事實或ひは過程の結合として與へられてゐるのである。ディルタイはこのことを現象性の原理(〔Satz der Pha:nomenalita:t〕)といふ言葉で表はしてゐる。ところでこの原理は、從來の經驗論的また一部分は先驗論的認識論がしたやうに、主知主義的に解釋されてはならない。單なる表象的思惟的活動のうちに、存在の最高の制約が與へられてゐるのではない。それは衝動、意志及び感情の中に含まれる聯關のうちに横たはつてゐるのである。外界の實在性といふ如き問題もここから解かれることができる。もし我々にして單に表象的な主體であるならば、我々にとつて外界はどこまでもただ現象であるに過ぎないであらう。我々の意慾、情感、表象の全體的な聯關において外界の實在性は基礎附けられるのである。ディルタイはカントの意識一般の概念を抽象的、構成的であるとして、これを斥ける。カントの認識主觀の血管の中には現實の血が流れてゐない。單なる思惟活動としての主觀は、表象感情意志の作用の悉くを自己の契機として含む現實的な、全體的な生によつて置き換へられなければならぬ。學問の原理は生そのもののうちに横たはつてゐる。この意味でディルタイは彼の認識論は自省(Selbstbesinnung)の立場に立つものであるといつてゐる。彼はこのやうな思想にもとづいて特に歴史の問題を解かうとした。歴史は彼によると生または精神生活の表現にほかならぬ。從つてフンボルトのいつたやうに、人間歴史においてはたらいてゐる一切のものは人間の内面においてもはたらいてゐる。それ故にまた精神生活に關する研究即ち心理學は、あらゆる歴史科學にとつて基礎でなければならない。かくの如き心理學はもとより自然科學的な心理學であることができぬ。自然科學的心理學は説明的或ひは構成的心理學(〔erkla:rende oder konstruktive Psychologie〕)として特性附けられる。それは精神現象を一義的に規定された要素の一定數によつて因果關係に從屬させようとする。例へば、一切の精神現象を感覺及び感情といふ二つの級の要素をもつて構成することによつて因果的に説明しようとするが如きはそれである。かやうな心理學に對してディルタイは記述的竝びに分析的心理學(beschreibende und zergliedernde Psychologie)を打ち樹てようとした。このものの目標は精神生活の構造聯關である。この學問はそれ自身において基礎附けられてゐる。自然現象においては聯關は後から與へられるものであるに反して、精神生活においては聯關そのものが根源的に、第一次的に與へられてゐる。ここでは構造が直接に與へられてゐるのであるから、この領域の分析と記述を仕事とする心理學は動かし難い、疑ふことのできぬ基礎をもつてゐる。そこに自然認識と心理學的認識とにおける方法上の根本的な差異の根柢が存するであらう。前者の方法が説明(〔Erkla:ren〕)といふ構成的なものであるに反して、後者の方法はむしろ分析的な理解(Verstehen)の方法である。
 マルクス主義の認識論もまた一見プラグマティズムであるかのやうである。哲學者は世界を種々に解釋しただけだ、世界を變革することが問題であらうに、といつたマルクスは、その認識理論において實踐の要素を甚だ重要視した。彼はいふ、人間的思惟に對象的眞理が適合するか否かの問題は、なんら理論の問題でなく、實踐的な問題である、と。實踐において人間は眞理を、即ち彼の思惟の現實性と力、此岸性を證明せねばならぬ。思惟、實踐から游離された思惟の現實性或ひは非現實性に關する爭は、全くのスコラ的問題である。一個のプディングの存在は、これを食ふことによつて確證することができる。このやうに眞理の基準を實踐に求める點でマルクス主義はプラグマティズムに類似してゐるやうに見える。しかしながら我々は次の點に注意することが肝要である。第一に、存在の概念における本質的な差異がそこに横たはつてゐる。ジェームズのいふ經驗は心理學的なものであり、意識の流にほかならない。ベルグソンにおいても純粹持續はその本質において意識的なものである。そしてこれら二人の思想家においては存在の歴史性といふことについての理解が缺けてゐる。ディルタイは生の歴史性について誰よりも明瞭に認識した。人間の歴史的性質は彼のより高い性質一般である、と彼は語つてゐる。しかし彼にとつても生は本質的に意識的なもの、精神生活として把握された。マルクスは經驗を重んず
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング