身のうちに或る前提、或る先入主見、或る偏向を含んでゐる。これらのものを明るみに出すことが今や哲學そのものの發展のために要求されてゐると思はれる。私のこの小さい解説的研究はその目的のために許される限りにおいて仕へねばならなかつた。もし認識論といふものを廣い意味に解し、その歴史的制約を除いて考へるならば、かかる意味での認識の理論一般はいはば哲學と共に古く、いつの時代にも、いかなる哲學のうちにもつねに包まれてゐたところのものである。それは理論哲學一般とその範圍を同じくする。それは例へばギリシアの學問が學問を物理學、倫理學及び論理學の三つに區分したといはれる場合の論理學にあたるものであらうが、このとき論理學はギリシアの學問において近代におけるそれとは全く違つた意味をもつてゐたのである。
いまや我々は認識に關する理論をいはゆる認識論の偏見から解放しなければならない。そのためには我々は存在の問題に深く入つてゆくことが必要であると考へる。認識の問題を存在の問題のうちに排列するといふ方向へ我々は進んでゆくべきであらう。
底本:「三木清全集 第四巻」岩波書店
1967(昭和42)年1月17
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