見方を越えるにある。
ディルタイはあらゆる存在は我々の體驗の事實として與へられると考へる。およそ私にとつてそこに在るものは私の意識の事實であるといふ最も一般的な條件のもとに立つてゐる。如何なる外的な物も私にとつてはただ意識の事實或ひは過程の結合として與へられてゐるのである。ディルタイはこのことを現象性の原理(〔Satz der Pha:nomenalita:t〕)といふ言葉で表はしてゐる。ところでこの原理は、從來の經驗論的また一部分は先驗論的認識論がしたやうに、主知主義的に解釋されてはならない。單なる表象的思惟的活動のうちに、存在の最高の制約が與へられてゐるのではない。それは衝動、意志及び感情の中に含まれる聯關のうちに横たはつてゐるのである。外界の實在性といふ如き問題もここから解かれることができる。もし我々にして單に表象的な主體であるならば、我々にとつて外界はどこまでもただ現象であるに過ぎないであらう。我々の意慾、情感、表象の全體的な聯關において外界の實在性は基礎附けられるのである。ディルタイはカントの意識一般の概念を抽象的、構成的であるとして、これを斥ける。カントの認識主觀の血管の
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