然において行はれる現象をできるだけ完全に、できるだけ簡單に、記述することである。クライビヒも、思惟作用は、思惟對象の最大量が思惟内容の最小量をもつて表象され、評價され、推論式で組み立てられるやうに、計畫的に行はるべきである、といつてゐる。ところで直觀は單に一々の個物を捉へ得るにとどまる。概念によつて一擧にして多くの事物の考察に達するといふことは思惟の仕事である。個物の直觀に代へるに概念の思惟をもつてすることによつて我々は一々の個物を相手にするといふ不經濟から免れることができる。しかしそれと同時に概念を思惟することにおいて我々のもつものはつねに個物の直觀でなければならない。もしさうでないならば、我々の認識は事實を離れることになつてしまふであらう。しからば直觀的個物から如何にして概念的な思惟に到達し得るのであるか。思惟經濟説の見方によると、我々はひとつの個物によつて他の多くのそれと類似の物を代表させるのである。存在するのはただ直觀的な個々の表象のみであつて、あらゆる思惟はそれにおいて或ひはそれを通して行はれる。そしてこれらの個々の表象をすべてに亙つて考へるといふことは實際に不可能であるばか
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