ch)の認識は我々にとつては不可能である。蓋し認識はいつでも内容と形式との綜合であつて、形式は思惟の自發的な活動に屬するけれども、内容は思惟みづからの生産するものでなく、却つて思惟はこれを直觀に仰がねばならぬ。しかるに直觀は我々においてただ受容的感性的である。いまもし感性的ならぬ種類の直觀があるとすれば、このものにとつては範疇の助けによつてまた他の種類の諸對象が存在するであらう。しかしながらかかる人間的ならぬ直觀の諸對象は、この直觀がまた與へられた感覺諸内容をなんらかの仕方で秩序づけるにとどまる如きものであるとすれば、物自體ではなく、どこまでも單に現象であるであらう。しかるにもし受容的ならぬ種類の直觀、それ故に單に形式ばかりでなく、内容をも綜合的に生産するやうな直觀があるとすれば、このとき直觀の諸對象はもはや現象ではなく、物自體でなければならぬであらう。かくの如き能力はカントによつて知的直觀(intellektuelle Anschauung)或ひは直觀的悟性(intuitiver Verstand)と名附けられた。それは人間においては分離して現はれるところの二つの認識力、感性と悟性と
前へ
次へ
全95ページ中56ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング