て、言ひ換へると、對象のうちに與へられたものとして主張するところの判斷である。兩者の認識論的相違は、經驗判斷においては諸感覺の空間的或ひは時間的關係が範疇によつて、即ち概念的な聯關によつて規則附けられ、基礎附けられてをり、しかるに知覺判斷にはこのことがないのによるのである。かやうにして例へば、二つの感覺の繼起は、その一が他の原因であるといふことによつて基礎附けられてゐるものとして思惟されるとき、對象的となり、客觀的或ひは普遍妥當的となる。ところで因果の概念は範疇の一つである。諸感覺のあらゆる個々の空間的時間的綜合態はこのやうな悟性の形式によつて規則的に結合されるとき初めて對象となる。經驗の對象は思惟によつて構成されるものである。それだから對象の經驗或ひは認識は可能である。我々の概念的綜合の諸形式が自然そのものを規定してそれを初めて自然として成立させる諸條件である故に、自然についての我々の普遍的にして必然的な認識は可能である。我々の認識が對象に從ふのでなく、對象が我々の認識に從ふのである、とカントはいつてゐる。かやうにしてすぐれた意味での經驗は、諸感覺の空間的時間的綜合が悟性の形式によつ
前へ 次へ
全95ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング