理は知識の性格であつてそれ以外のものを意味しないのに反して、後者にとつては、眞理は第一次的には存在そのものの性格であり、そして第二次的に知識の性格を意味してゐる。これは甚だ重要な點である。しかるに近代の認識論はこの點を無視していはゆる模寫説に對して批評を行つてゐるのである。それが批評の對象としてゐるやうな模寫説はむしろ何處にも存しないのであり、いはば單なる認識論的構成物に過ぎない。この事情をはつきりさせることは近代の認識論的偏見を打ち破るために必要なことであるから、更に立入つて論究してみようと思ふ。
 我々の認識の素朴な態度は果して模寫説的な考へ方に立つてゐるであらうか。ここに素朴といふのは、前哲學的といふことであつて、單に我々の日常の經驗ばかりでなく、また科學の立場をもいふのであり、從つてそれは一層適切に自然的な態度(〔natu:rliche Einstellung〕)と名附け得るであらう。ところでこの自然的な態度は一般に模寫説としてよりも、むしろヘーゲルにおいての如く思辨的(spekulativ)として特性附けられねばならぬ。このやうな態度のうちには、ヘーゲルがいつたやうに、眞なる
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