いふ命題で現はした。この場合コギト(私は考へる)といふのは單に思惟することではない。表象し、思惟し、感情し、意志するすべてが含まれてゐる、一言でいふと意識することである。またそれは私が考へる故に私が存在するといふ推理でもない。意識するもの(res cogitans)としての私の存在がそこに自證されるのである。私が散歩に行くといふことは私が夢に空想してゐることかも知れない。しかしそれを私が意識してゐるといふことを私は單に空想することができぬ。なぜなら空想もそれ自身意識の一種であるからである。同じやうに、私が疑ふとしても、疑ふといふ意識は私にとつて確實である。かやうにしてデカルトのコギトは二つのことを意味するであらう。第一、それはあらゆるものを内在的にする存在の領域である。私は意識されたものを意識する(ego cogito cogitationes)といふ關係がそこにあるからである。これに關聯して、第二に、それは彼の言葉を用ゐると明晰判明に(clare et distincte)知られる存在の領域である。デカルトは意識の存在の確實性を統一的な基本的な眞理と考へた。そして私の自己意識のやうに
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