的認識を懷疑の中へ引き入れたのであらうか。數學の命題が確實であるといふことは我々にとつて先づいはば事實であつて、我々はこの一般的な事實についてその根源を問はねばならぬ。懷疑は事實を否定するのではなく、事實の根源に關する問を可能にするために、事實を搖り動かすのである。そこで我々はデカルトの求めるものが單なる眞理ではなく、基礎附けられた眞理であるのを認めることができるであらう。我々はあの夢の假説をもこの意味に解することができる。かやうにしていはゆる懷疑論者としてのデカルトはどこにも見出されない。彼は眞理の存在を疑つたことはなかつた。むしろ我々は彼が懷疑の存在によつて眞理の存在を論證してゐるのを見出すのである。私が疑ふといふのは何物かが私に缺けてゐるためである。しかるにもしそれとの比較において私の缺乏を知る如き完全な實在の觀念が私のうちにあるのでなければ、私は自己が疑ひ、從つて自己が缺けてゐることを知り得る理由はない、と彼は論じてゐる。完全な實在といふのは神であり、神は眞理の寶庫である。
デカルトは懷疑によつて發見された原理を「私は考へる、故に私は在る」(cogito ergo sum)と
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