は、しばしば誤つて解されるやうに、定立に對する反定立もしくは肯定に對する否定ではない。むしろそれは、デカルトによると、ひとつの假定(suppositio)であるに過ぎない。私は私の單純な、原始的な體驗に現はれる世界に對して、そのあるがままに任せておきながら、しかもその固有の力を失はせることができる。そのために私は暴力を用ゐることを要せず、それの虚僞であるのを示すことも不要である。むしろ私は私に力をもつて迫つて來る存在をそのままに押しやつて、これに對して同意することを差し控へねばならぬ。ところで懷疑が方法的意義を得るためには、懷疑は一般的に遂行されなければならない。しかし次に懷疑はまた秩序をもつて遂行されなければならない。方法的な懷疑は、疑はしく見える個々のものを一々吟味するといふ如き報いられぬ仕事をやめて、かやうなものの基礎と原理とに向ふことを我々に要求する。更にこれらのものについても我々を段階的に導いてゆかなければならない。デカルトは驚くべき確かさをもつてこの段階を辿つてゐる。彼の懷疑の最初の對象となつたのは一般に感官と關係する存在、一は感官から(a sensibus)直に受け取られるもの、他は感官を通して(per sensus)あるものである。前者は音や色の如きものであり、後者は中世の學者が imagines と呼んだもの、記憶像の如きものである。デカルトは感官と關係する特殊(particularia)の存在を疑つた後に、懷疑を一般(generalia)の存在に向けた。例へば、私がいま眼を開き、頭を動かし、手を伸してゐるといふ特殊な事實が眞でなく、私がこのやうな手や體をもつてゐることは假幻であるに過ぎないとしても、ちやうど畫家がサティルを描くにあたつてそのすべての部分を全く新しく作ることは不可能であり、却つて彼は現實に存在する動物の肢體を組み合せてあの怪物を作らねばならぬやうに、少くともこの一般、眼や頭や手そのものの存在は確實らしく見える。デカルトはかやうな一般の存在を押しやつた後に、懷疑の次の段階へ登つて尋ねた。たとひ畫家が彼のサティルを實際の動物になんら類似することなく全く空想的に描き出すとしても、彼は少くともまことの色を用ゐて制作しなければならぬやうに、これらの一般、眼や頭や手などが假幻的なものであるとしても、我々の意識の中にあるこれらの心像を作り出すために缺くことのできぬまことの色ともいふべき普遍(universalia)は眞實に存在するものと考へらるべきではないであらうか。ここに普遍といふのは、物體の普遍的な性質、延長、形状、數、空間、時間などである。從つて複合的な物體を考察する物理學、天文學、醫學などの學問が疑はしくあるとしても、最も單純で最も普遍的な對象を取扱ふところの、算術や幾何學の如き學問は確實であると結論され得ないであらうか。デカルトは最後に數學の教へる命題もまた一般的な懷疑のうちへ引き入れられねばならぬと考へたのである。
 ここに我々はデカルトの懷疑の目的がどこにあつたかを知ることができるであらう。第一に、彼は懷疑を物の超越的存在に向けた。知覺や記憶はこれらの心像に類似し相應する物が我々の意識の外に實在するかのやうに我々に告げる。デカルトは我々のこのやうな自然的な考へ方を押しやるために夢の假説を用ゐてゐる。私はしばしば夢において私が現に見たり觸れたりする事實と同じ事實を同樣に明かに意識することがある。そして仔細に考へると、私は夢と現とを分つべき確かな指標を知らないのであるから、私は私の生涯の現實がひとつの夢幻でないといふことをあかしするすべを知らない。もしさうであるなら、我々の自然的な態度において確實に見える心の外の存在は十分に疑はるべき理由をもつてゐる。かやうにしてデカルトの懷疑の目的の一つは超越的なものを排してすべてを内在的に考察し得る如き立場を發見することにあつた。第二に、デカルトは懷疑を數學的對象にまで擴げる。このとき夢の假説はもはや用をなさぬ。算術や幾何學の對象は私の心の外にあるものでなく、むしろ私の意識に生具してゐるものである。私は數學を考へるとき、私の取扱ふ對象が自然的現實のうちに實在するか否かを問はない。それのみでなく、二と三との和は五である、などといふ命題は、私が眠つてゐるにしても私が覺めてゐるにしても少しも變らないのである。かやうな命題を搖り動かすために、デカルトは有名な惡魔の假説を用ゐた。假に萬能で、しかも惡意をもつた惡魔がゐて、私を誤らせるために全力を使つてゐるとしたならば、私が二と三とを加へる毎に、自分では完全な認識をもつてゐると信じてゐるにも拘らず、そのたび毎に私をつねに誤らせてゐないとは保證し難いであらう。何故にデカルトは惡魔の助を借りてまで、我々に自明のものと見える數學
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