自然科學に定位をとり、かくして自然科學的であつたことの歴史的必然性は容易に理解され得るであらう。ロックやヒュームなどの認識論が既に自然科學的であつた。カントの『純粹理性批判』もまた自然科學、特に數學的自然科學に定位をとつてゐる。自然科學がルネサンス以來夙に形而上學の支配を脱して、獨立に發展して來たのに反して、歴史及び社會に關する科學はその後もなほ永い間形而上學の覊絆を脱せず、その影響のもとにあつた。この事情が認識論における歴史科學または社會科學の無視乃至輕視といふ、一般的傾向のひとつの重要な理由であつたであらう。いづれにせよ、認識論の自然科學への偏向といふ事實は注意されなければならない。
 認識論の非形而上學的或ひは反形而上學的傾向からして、そのひとつの他の傾向、むしろ偏向が隨つて來るであらう。認識論は認識の問題を實在の問題から分離することによつて成立した。そしてこれは認識の限界の問題と自然的に結びついてゐた。認識には限界があるといふ思想を積極的に述べるとき、不可知論(Agnostizismus)が生じる。不可知論といふのは實在或ひは絶對者は不可認識的な(unknowable; unerkennbar)ものであるといふ主張である。絶對者は我々の知り得ざるものであるといふ思想は昔からないではなかつた。その顯著な例としてニコラウス・クザーヌスの哲學を擧げることができるであらう。彼によると、無限な存在としての神は一切の矛盾の一致、即ち coincidentia oppositorum である。かかる無限な存在は人間の心の三つの形態、感性、悟性、叡智のいづれによつても理解され得ない。神は我々有限な者の認識にとつて單純に限界としてとどまつてゐる。それは認識を絶した直觀をもつて、いはゆる無知の知(docta ignorantia)による神祕的な直觀をもつてのみ、理解され得るものである。ところでクザーヌスその他の場合と近代の認識論上の不可知論の場合とでは相違がある。前の場合には絶對者の規定から人間の認識への道を取つてゐる。絶對者については信仰或ひは神祕的直觀などによつて既に理解されてゐるのである。從つてそこには本來の不可知論はない。しかし絶對者の諸規定は人間の認識の尺度によつては測られぬものであると主張されるのである。しかもこのやうな不可測性の根源は絶對者の存在と人間の存在との間
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