のである。自我はもはやなんらかの實體(Substanz)ではなく、主觀(Subjekt)である。主觀に對するものは客觀(Objekt)である。自我はあらゆる意味で客觀ならぬもの、却つてあらゆる客觀の根柢である。
カントの認識論の中心問題は、如何にして認識が對象または客觀に關係し、對象性或ひは客觀性を得るかといふことにあつたのである。このことは次の二つの前提のもとにおいてはいづれも不可能である。第一に、もし對象が主觀の外にそれ自體において獨立に存在し、我々の認識がただこれに從はねばならないのであるとすれば、我々の認識は到底對象性をもつことができない。なぜならこの場合認識は對象の模寫を意味するほかなく、しかるに主觀における模寫が客觀そのものと一致してゐるか否かといふことを確かめ得るところの基準はこのとき見出されない。我々は單に表象と表象とを比較してその間の一致または不一致をいひ得るのみである。ひとつの表象と物そのものとを比較することは、物そのものがまたひとつの表象でない限り不可能であらう。第二に、もし我々の認識がすべて經驗から(a posteriori)來るものであるとすれば、我々の認識は對象性或ひは客觀性をもつことができない。なぜなら經驗は單に然かあるといふことをその場合について教へ得るだけであつて、あらゆる場合に必ず然かなければならぬといふことを示し得ない。即ちただ經驗にのみもとづく認識は蓋然性を有し得るにとどまり、普遍性と必然性とを有し得ない。しかるに認識の對象性或ひは客觀性はその普遍性と必然性とを意味してゐる。かやうにしてカントの認識論は右の二つの前提をくつがへさうとしたのである。
綜合の概念はカントにとつて最も重要な意味を有するものの一つである。綜合とは多樣の統一をいふ。既にライプニツはモナドを多樣の統一として規定した。各々のモナドはそのあらゆる状態において、一切の爾餘のものを表象し、そして表象の本質にはつねに多樣の統一化が屬してゐる。カントにおいても認識とは多樣の統一である。その統一において統一される多樣は感覺の多樣である。これは認識の内容をなすものであつて、感性によつて與へられる。認識の内容に對してこの内容を一定の關係に秩序づけて統一するには統一の形式がなければならない。ところでカントによると、感覺内容が與へられるとき、このものは既に一定の形式において
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