に役立つものである、判明な表象とはその個々の要素に至るまで、このものの結合に至るまで、明晰であるところのものである。いま永久眞理もしくは幾何學的乃至形而上學的眞理と呼ばれるものは明晰にして且つ判明である。これに反して事實眞理は明晰ではあるが判明ではない。第一のものにはその反對は不可能であるといふ確信が結びついてゐるけれども、第二のものにおいてはその反對が考へられ得る。前者においてはその直觀的確實性は矛盾律にもとづき、後者においてはその事實的現實性によつて保證された可能性はなほ充足理由律に從つての説明を必要とする。ところでライプニツはこのやうな差別はただ人間悟性の不完全にのみ關係すると考へた。合理的眞理においては我々はその反對の不可能を明視する、經驗的眞理においてはさうでなく、我々は現實の認定に滿足しなければならない。しかし後者にしても物の本性のうちに(in natura rerum)あるのであつて、神の悟性にとつてはその反對は不可能であるやうに基礎附けられてゐるのである。このやうな考へ方とは違つて、カントにとつては固有の意味において認識といはるべきものは經驗的認識であつた。彼は數學的認識の如きもいまだ十分な意味においては認識とはいひ得ぬとした。なぜならそれは經驗に關はるものでないからである。彼の認識論の問題の中心は經驗にあつたのである。第二に、そして最も決定的なことは、次のことである。カント以前の思惟は、ライプニツも含めて、すべて世界の思惟であつた。それは自我無き世界哲學(Welt−philosophie)であつた。神を把捉しようとする試みでさへ、神を一の自我無き實體、一の存在するイデアとすることに到達したまでに過ぎぬ。それは神を自我の深みに求める代りに、神をひとつの世界に、此方の世界の外にあるとはいへ、なほ彼方の世界においたまでである。シェリングがライプニツの神の概念についていつてゐる、ライプニツにおいてはそこにあるすべてのものは非我である、一切の否定以外のあらゆる實在性を結合してゐるところの神ですらがさうである、批判的體系に從へば、自我がすべてである、と。まことに批判的體系といはれるカントの哲學の中心は自我であつた。ここに世界哲學との對立において自我哲學(Ichphilosophie)が生れた。自我を自我ならぬすべてのものに對立させることはカントによつてなされた
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