ものは現實のうちにあり、知覺にとつて現にそこに在るといふ大いなる原理が横たはつてゐる。この原理は抽象的な反省が自慢にする當爲(Sollen)の思想に對立する。この態度においては、眞なるものは現實的なものであり、從つて眞理は第一次的には存在に附けられる名である。故にそこでは追考(Nachdenken)によつて「眞理は認識され」、對象の眞に在るところのものが意識の前にもたらされると信じられてゐる。かやうにして自然的な態度は思辨的な眞理の概念を含むのであつて、いはゆる模寫説の立場に立つものではない。
 プラトンは知識(〔episte_me_〕)と意見(doxa)とを對立させた人として知られてゐる。このプラトンの認識理論も近代の認識論によつて模寫説のひとつと見られてゐる。しかしながら、たとひプラトンが認識の作用を模寫的と考へたにしても、彼にとつてはどのやうな存在の模寫でもが知識の意味をもつてゐたのではなく、ただイデアの、言ひ換へると、眞に存在するものの模寫のみが知識であつたのである。我々の感性的表象も或る意味では存在を模寫するであらう。けれどもこの場合存在といはれるものは眞に存在するものでなく、生成し消滅するところのものである。かくの如きものの模寫は、プラトンによると、知識ではなく、意見であるに過ぎない。ただ眞に存在するもの即ちイデアについてのみ眞の知識は可能である。このやうにプラトンは世界を、イデアの世界とゲネシス(生成)の世界との二つに分ち(いはゆる二世界説 Zweiweltentheorie)、知識と意見とを兩者にそれぞれ一義的に屬せしめ、更に人間における二つの活動、理性と感性とをまたこれらのものにそれぞれ一義的に屬せしめた。このやうに三つのものの間に一義的な歸屬關係が結ばれてゐるといふことは注目すべきことであつて、そこから我々は彼の認識理論の意味を學び取らなければならぬ。そこに我々は、等しきものは等しきものによつて知られるといふあの尊敬すべき原理がはたらいてゐるのを認めることができる。天才を知る者は天才のみである、とひとは屡々いつてゐる。ヘーゲルもいつた、侍僕にとつてはなんらの英雄も存しないといふのはよく知られた諺である、私はこの諺に次のやうに附け加へる、けれどもそれは此の者がなんら英雄でないためでなく、彼の者が侍僕である故である、と。恰もそのやうに、人間精神の諸活
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