も、そのうちに隱されて横たはつてゐる。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるといふ要求は、兩者が共に同一の對象に關係させられるといふことに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとせられるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。我々が科學的理論において形作る諸表象は、我々が經驗によつて得る諸表象と一致すべきであるといはれるとき、そこにはその根柢として、兩者において同一の實在が精神に現はれてゐる筈であるといふ思想がはたらいてゐる。このやうに模寫説は甚だ根源的な、甚だ影響の多い認識理論である。
近代の認識論は模寫説について、第一に、それは素朴な考へ方であるばかりでなく、第二に、カント以前の哲學はその認識理論においてすべて模寫説であつたと看做してゐる。このやうに見ると、模寫説はおよそ非認識論的な考へ方を代表することになるであらう。なぜなら普通に認識論的な考へ方はカントによつて確立されたものであり、カントに始まるとさへ見られてゐるからである。惟ふに、この認識論的な考へ方と模寫説的な考へ方との最も根本的な對立はかうである。即ち前者にとつては、眞理は知識の性格であつてそれ以外のものを意味しないのに反して、後者にとつては、眞理は第一次的には存在そのものの性格であり、そして第二次的に知識の性格を意味してゐる。これは甚だ重要な點である。しかるに近代の認識論はこの點を無視していはゆる模寫説に對して批評を行つてゐるのである。それが批評の對象としてゐるやうな模寫説はむしろ何處にも存しないのであり、いはば單なる認識論的構成物に過ぎない。この事情をはつきりさせることは近代の認識論的偏見を打ち破るために必要なことであるから、更に立入つて論究してみようと思ふ。
我々の認識の素朴な態度は果して模寫説的な考へ方に立つてゐるであらうか。ここに素朴といふのは、前哲學的といふことであつて、單に我々の日常の經驗ばかりでなく、また科學の立場をもいふのであり、從つてそれは一層適切に自然的な態度(〔natu:rliche Einstellung〕)と名附け得るであらう。ところでこの自然的な態度は一般に模寫説としてよりも、むしろヘーゲルにおいての如く思辨的(spekulativ)として特性附けられねばならぬ。このやうな態度のうちには、ヘーゲルがいつたやうに、眞なる
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