ができる。二つの音が相繼續すると判斷される場合に我々の表象する音と音との關係は、判斷を下すことなしに音の相繼續するのを聞くときのそれと、なんの變りもない。この事實は、判斷においては、表象された音に、その表象から判斷を構成すべき何物かが加はらねばならぬことを證してあまりあるであらう。しからば判斷を形作るこの新しい要素とは何であらうか。多くの人がかやうな新しい要素のなければならぬことを注意してゐる。判斷は一般的にいふと主語表象と客語表象との結合である。ロッツェによると、判斷においては主語と客語との關係の上に、この關係の妥當如何を言ひ表はすべき第二の判斷が存在しなければならない。この第二の判斷といはれる要素がそれ自身表象的なものであつてはならぬことは明かである。なぜならもしこの副判斷にして單に表象された關係しか含まないとすれば、その妥當性を言ひ表はすべき新しい第二の判斷が更に必要となり、かくて副判斷の無限の系列がなければならないからである。ベルクマンは判斷における肯定と否定を、主語と客語との間の單に表象された關係を化して判斷となすところの批評的態度であると考へた。この見解から彼は判斷を單なる理論的態度と見ないで、實踐的性質を帶び、意欲的能力の共存する精神の發現と見なければならぬといふ結論を引出してゐる。またウィンデルバントは判斷(Urteil)と價値判斷(Beurteilung)とを區別する。判斷といふのは價値判斷によつて初めて眞僞が判定されるところの純理論的な表象結合である。我々の思惟にして認識を、從つて眞理を目差してゐる限り、我々の判斷はすべて價値判斷のもとに從屬する。認識の命題はつねに判斷と價値判斷との或る種の結合を含んでゐる。それは表象の結合ではあるが、その眞理價値は肯定または否定によつて決定される、とウィンデルバントはいつてゐる。ところで判斷の本質に關するこれらの見方がなほ幾分心理學的であるのに對して、リッケルトは判斷の本質を純粹に論理的に考察するには、判斷をもつて問に對する答と見れば最も適當であると考へる。問に對する答は、その問の答へられることが可能であり、延いては求められた判斷が可能であるときには、必ず肯定または否定の形をとつて現はれる。判斷の論理的本質は問のうちにある表象的要素の肯定或ひは否定なしには考へることができない。いま認識は判斷であり、判斷の本質は
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