た妥當すべきであるにしても、このものはどこまでもそれらの諸内容に依存するといはうとするのである。けれども感覺論に反對してひとはいふことができる。最も原始的な關係、例へば比較或ひは區別の如きでさへ、個々の内容のいかなるもののうちにも、またその和のうちにも與へられてをらず、むしろそれは與へられた諸内容に對して或る新しいもの、他の種類のものとして附け加はるのである。それだからロックの如きも諸要素を關係づける諸活動、記憶、區別、比較、結合等のものを精神の諸能力(faculties)と稱し、これらの精神みづからの機能の仕方は感覺によつてでなく、反省によつて意識されると考へた。しかしロックは經驗論者としての制限のために、これらの諸活動をも受動的なものとし、感覺の内容に束縛されてゐると見た。
 ロックが精神の諸能力に歸したものに我々は自己活動性を與へねばならぬやうに思はれる。このやうな自己活動的な能力は直觀に對して普通に思惟と呼ばれてゐる。しかもここにいふ思惟はギリシア的なヌースでなく、むしろディアノイア即ち比量的な悟性(Verstand)としての思惟である。かやうにして思惟をもつて特にすぐれた認識の作用と見る思想が現はれる。カントの如きはこれに數へられることができよう。カントにとつても認識の對象として問題になつたのは經驗的な存在であつた。直觀は彼においても主として感性的な直觀を意味する。そして彼は感性を受容性(〔Rezeptivita:t〕)として特性附ける。これに反して悟性は自發性(〔Spontaneita:t〕)を本質とするといはれる。悟性のはたらきは何よりも判斷である。そこでカントの如きも判斷をもつて特にすぐれた認識の作用と考へた。
 認識は判斷であるといふ思想は現代の新カント學派によつて繼承されてゐるところである。判斷は表象とは異るものである。判斷においては表象においてよりも音が一層明瞭に、一層鋭く表象されるといふのではない。或る音曲に聞きとれてゐる場合、私の全努力はその音の何物も聞き落すまいとするけれども、その音について判斷を下す必要は必ずしもないのである。それのみでなく我々が判斷を下すと、判斷された内容は明かるさと鋭さとにおいて却つて減退するのがつねである。また我々は極めてぼんやりした微弱な音についても、強い、確かな、はつきりした音についてと同じやうに判斷を下すこと
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