書の有する微妙な味、繊細な感覚は飜訳によって伝えられることが不可能である。そのうえ飜訳はすでに解釈であるということを知らねばならぬ。ひとは原語で読む困難を避けてはならない。飜訳で読むのが原書で読むのよりも速いということはあるにしても、ゆっくり読むことはそれだけ自分で考えながら読む余裕を与えることにもなるのであり、そしてこれは大切なことである。原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものではなく、却って語学そのものが一つの重要な教養である。一つの国語はその民族の精神の現われであり、その思想の蓄積であるということができる。勿論あらゆるものを原語で読むということは不可能であり、またあらゆる場合に原語で読まねばならぬというわけではない。原語で読むことができないという理由でそれを読まないというのは悪い口実である。また飜訳で間に合わせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むようにしなければならぬ。飜訳の方が簡単であるからというので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であって、便宜主義は読書においても有害である。
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