一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。一般的教養と専門とは排斥し合うものでなく、むしろ相補わねばならぬものである。ひとは固《もと》よりつねに一定の目的をもって読書するものではない。何か目的がなければ読書しないというのは読書における功利主義であって、かような功利主義は読書にとって有害である。目的のない読書、いわば読書のための読書というものも大切である。これによってひとは一般的教養に達することができる。一般的教養を得るという目的で一定の計画に従って読書することは勿論《もちろん》善いことではあるが、しかしかような計画は実行されないのが普通であって、むしろ若い時代から手当り次第に読んだものの結果が一般的教養になるという場合が多い。一般的教養は目的のない読書の結果である。けれども当てなしに読んだものが身に附いて真の教養となるというには他方専門的な読書が必要である。専門のない読書は中心のない読書であって、如何に多く読んでも何も読まなかったに等しいことになる。いわゆる読書家の陥り易い弊はディレッタンティズムである。
三
如何に読むべきかという問題は何を読むべきかという問題と関聯《かんれん》している。ひとは凡《すべ》ての書物を同じ仕方で読むことはできないし、また同じ仕方で読んではならぬ。博く読むためには書物の種類に従って読み方を変えなければならない。そこに読書の技術があるのである。
何を読むべきかに就いては、もちろん、善いものを読まねばならず、悪いものを読んではならぬということは明かである。悪い本を読むことはそのこと自身無益であるばかりでなく、悪い本を読んでいるうちには善いものと悪いものとを区別することができなくなってしまうという危険がある。ひとはただ善いものを読むことによって善いものと悪いものとを見分ける眼を養うことができるのであって、その逆ではない。善い本は必ずしも読み易い本ではない。大きな、分厚な、むつかしい本であるからといって避くべきではなく、その方面で最も善い本を読むように努めなければならぬ。読書においても努力が大切であり、そして努力はつねに報いられるのである。やさしい本、読者に媚《こ》びる本ばかりを読んでいては、真の知識も教養も得ることができぬ。一度でその本が全部理解されなくても好い、ともかく善いものにぶっつかってゆくことが肝要である。
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