能であろう。読書は先ず濫読から始まるのが普通である。しかしいつまでも濫読のうちに止まっていることは好くない。真の読書家は殆どみな濫読から始めている、しかし濫読から抜け出すことのできない者は真の読書家になることができぬ。濫読はそれから脱却するための濫読であることによって意味を有するのである。
濫読に止まるなということは多読してはならぬということではない。多読家でないような読書家があるであろうか。寧ろ読書家とは多読家の別名である。諺《ことわざ》に、賢者はただ一冊の本の人間を恐れる、という。ひとは多く読まなければならぬ。読書の必要はただ一冊の本の人間にならないために、云い換えれば、一面的な人間にならないために、存在するのである。単に自分自身の時代のみでなく、また過ぎ去った時代について、単に、自分自身の国のみでなく、また世界について、全体の生活と思想について正しい見通しを得るために、多く読まなければならぬ。即ち読書において一般的教養を心掛けることが大切である。読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。単に自分の専門に関してのみ読書する人は読書家とはいわれぬ。教養とは或る専門の知識を所有することをいうのではなく、却《かえ》って、教養とはつねに一般的教養を意味している。専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。専門家も人間としての教養を具《そな》え専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである。そのうえ自分の専門以外の書物から専門家が自己の専門に有益な種々の示唆を与えられる場合も少くないであろう。かくして多読は濫読の意味においては避くべきことであるとしても博読の意味においては必要であると云わねばならぬ。
然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読にほかならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない
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