ある。環境が我々を喚び起すというのは、それが表現的なものであるからである。環境においてあるものが表現的であるということは、我々が主観的に、例えば感情移入の作用によって、その中へ意味を投入したというが如きことではない。表現的なものの表現する意味は単に心理的なものでなく、超越的なものでなければならぬ。かようなものとしてそれが我々に呼び掛けるということは絶対的な命令の意味をもっている。その呼び掛けに対する答として我々の行為は客観的な意味をもっている。表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間を形成してゆくのである。人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。道徳は自己実現であると考えるいわゆる自己実現説は、一個の内在論にほかならぬ。実現とは自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるということを意味している。人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。また我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである。
我々の行為は客観的表現から喚び起されるものとして、主体的に見ると、どこまでも無目的であるということができる。己れを空しくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなるのである。しかし客観的に見ると、我々の行為はつねに限定されたものに向うものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史的に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現のうちにあるのである。従ってそれは客観的に認識することのできるものである。我々は現実を科学的に認識することによって、我々の行為の目的を捉えねばならぬ。それは歴史の必然的な発展の方向のうちに与えられている。しかし歴史は単に客観的なものでなく、また単に客観的なものは目的ということもできないであろう。歴史は我々にとって単に与えられたものでなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。形成的世界における形成的要素として、我々の行為は本来つねに職能的な意味をもっている。その世界の我々に対する呼び掛けが我々にとっての使命である。職能は使命的なものであり、使命はまた職能に即して歴史的・社会的に限定されたものである。しかし単に客観的なものは使命とは考えられない。外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは、世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。
底本:「三木清全集 第七巻」岩波書店
1967(昭和42)年4月17日発行
底本の親本:「哲学入門」岩波新書、岩波書店
1940(昭和15)年3月発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。ルビはすべて、「作業指針」に基づいて付けた加えたものです。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「恰も→あたかも 乃至→ないし 如何→いか・いかん」
入力:kompass
校正:石井彰文
2007年4月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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