術がある。人間は自然的・社会的環境において、これに行為的に適応しつつ生活している。自然に対する適応と社会に対する適応とは相互に制約する。自然に対する適応の仕方が社会の組織や制度を規定し、逆にまた後者が前者を規定する。自然に対する技術と社会に対する技術とは相互に聯関している。そして歴史的に見ると、近代社会における中心的な問題は自然に対する技術であったが、それが産業革命となり、その後その影響から重大な社会問題が生ずるに至り、現代においては社会に対する技術が中心的な問題になっているということができるであろう。
しかし道徳は外的なものでなく、心の問題であるといわれるとすれば、そこに更に心の技術というものが考えられるであろう。心の徳も技術的に得られるのである。人間の心は理性的な部分と非理性的な部分とから成っているとすれば、理性が完全に働き得るためには非理性的な部分に対する理性の支配が完全に行われねばならぬであろう。この支配には技術が必要である。人間生活の目的は非理性的なものを殺してしまうことにあるのでなく、それと理性的なものとを調和させて美しき魂を作ることであると考えられるとすれば、技術は一層重要になってくる。心の技術は物の技術と違って心を対象とする技術であるにしても、それは単に心にのみ関係するものではない。この技術もまた一定の仕方で環境に関係している。即ち物の技術においては、技術の本質であるところの主観と客観との媒介的統一は、物を変化し、物の形を変えることによって、物において実現される、そこに出来てくるのは物である。心の技術においても環境が問題でないのでなく、ただその場合主観と客観との媒介的統一は、心を変化し、心の形を作ることによって、主体の側において実現される。かくして「人間」が作られるとき、我々は環境のいかなる変化に対しても自己を平静に保ち、自己を維持することができるのである。その人間を作ることが修養といわれるものである。修養は修業として技術的に行われる。しかしながら心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。いわゆる修業も特定の仕方において主体と環境とを技術的に媒介して統一することであるにしても、心の技術はそれ自身に止まる限り個人的である、それは物の技術と結び付くことによって真に現実的に社会的意味を生じてくるのである。
技術的行為は専門的に分化されている。そして自己の固有の活動に応じて各人にはそれぞれ固有の徳があるといわれるであろう。大工には大工の徳があり、彫刻家には彫刻家の徳がある。徳とは自己の固有の活動における有能性である。しかるにかようなそれぞれの徳が徳といわれるのは、その活動が社会という全体のうちにおいてもつ機能に従ってでなければならぬ。各人は社会においてそれぞれの役割を有している。人間はつねに役割における人間である。各人が自己の固有の活動において有能であることが徳であるのは、それによって各人は社会における自己の役割を完全に果すことができるからである。無能な者はその役割を十分に果すことができぬ故に、彼には徳が欠けているのである。かようにして徳が有能性であるということは、人間が社会的存在であることを考えるとき、徳の重要な規定でなければならぬ。ひとが社会において果す役割は彼の職能を意味している。自己の職能において有能であることは社会に対する我々の責任である。物の技術において有能であることも、社会に関係付けられるとき、主体に関係付けられることになり、道徳的意味をもつに至るのである。
各人が専門に従って有する徳はそれぞれ異っているであろう。しかるに徳はかように特殊的なものでなく普遍的なものでなければならぬと考えられている。大工が大工として有する徳が徳であるのでなく、むしろ彼が人間として有すべきものが徳である。かような徳は、彼の専門の活動がいかなるものであろうと、すべての人間に共通である。例えば、正直であることは、大工にとって必要であるばかりでなく、商人にとっても必要である。そこに技術的徳と固有な意味における徳とが区別される。徳は人間性に関わるもの、普遍人間的なものと考えられる。それは各人の固有な活動に関わるものでなく、人間の人間としての固有な活動に関わるものでなければならぬ。プラトンが技術的徳に対して「魂の徳」といったのはかようなものである。道徳は主体的なものに関係し、人間性というのもかようなものでなければならない。枝術的徳から区別して魂の徳というが如きものを考えることには或る重要な意味がある。しかしながらまたそれぞれ固有の活動に従事する人間を離れて人間一般を考えることは抽象的である。大工の人間は彼の大工としての活動を離れて考えられず、芸術家の人間は彼の芸術家としての活動を離れて考えられない。各人の固有な徳から抽象して人間性一般の徳を考えることは無意味であろう。技術的徳とは別に徳そのものを考えることは、道徳を単に意識の問題と見て、行為の立場から見ない抽象的な見方に陥り易いことに注意しなければならぬ。ゲーテが考えたように、技術は人間に対して道徳的教育的意味をもっている。ひとは彼の技術に深く達することによって人間としても完成されるのである。
しかしながら他方、それにも拘らず、職能的専門家と人間とが区別され、技術的徳と魂の徳というが如きものとが区別されねばならぬところに、道徳の一つの重要な根拠があるのである。そのことは道徳の根拠が抽象的な人間性一般にあるということではない。人間はすべて個性である。そして専門家として技術的徳を具えることによって、各人の個性は形成され発達させられるということは事実であろう。しかしまた自己の専門は自己の個性に応じて自己みずからが決定し得るものである。そして個性の意味は専門家の意味に尽きるものではない。言い換えると、人間の人格は役割における人間の意味を超えたものである。役割における人間の意味を超えた個性が人格といわれるものである。人格といっても、すべての人に抽象的に共通なものがあるのではない。人格はつねに個性的である。ただそれが単に役割における人間とのみ見られない超越的意味をもっているところに人格があるのである。人間が主体的存在であるというのはその意味である。人間存在の超越性において人格が成立する。人格が或る超個人的意味をもっていると考えられるのも、そのためである。そこに技術的徳とは異る魂の徳というが如きものも考えられるのであって、それは人格的徳のことでなければならぬ。人間の主体性の自覚においてペルソナ(格人)とは異るペルゼーンリヒカイト(人格)が成立するのである。ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に役割における人間でなく、人格である。人格として人間は単なる職能的人間を超えたものである。専門家として通達することによって彼の人間は作られるといっても、彼が単に専門家に止まっている限りそれは不可能であって、そこには専門にありながら専門を超えるということがなければならぬ。そのことは人間存在の超越性を示している。そしてそのことはまた、技術が人間の作るものでありながら人間を超えた意味をもっているということ、即ちそれが単に人間的なものでなく世界的・歴史的意味をもっているということを示している。人間の技術は自然の技術を継続するというのも、そのことでなければならぬ。そこでまた人間は形成的世界の形成的要素と考えられるのである。
かようにして人間は役割における人間であると同時に人格である。道徳は人格的関係であるといっても、人格的関係は役割の関係から抽象して考えられず、逆に役割の関係は同時に人格的関係であって道徳的である。役割における人間として我々は有能でなければならず、人格として我々は良心的でなければならぬ。しかも二つのことは対立でありながら統一である。我々の役割は社会的に定められている、役割はつねに全体から指し示され、全体と部分との関係を現わしている。職能的人間として我々は社会から規定されている。従って人間を単に役割における人間として見てゆけば、社会と個人との関係は全体と部分との単に内在的な関係となり、個人の自由は考えられないであろう。その場合、個人は社会にとって有機体の器官の如きものとなり、単なる手段として存在するに過ぎなくなるであろう。しかし人間は人格である。人格として人間は自由である。彼の自由は彼の存在の超越性において成立する。人間は社会に単に内在的であるのでなく、同時に超越的である。我々は社会のうちにありながら社会を超えている、我々が単に民族的でなく同時に人類的であるというのも、その意味である。社会からいえば、社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の外にあるのでなく我々の内にあるということができる。しかしながら、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなお外なるものとして真に内なるものであるのである。我々の内なる人類というものは単に主観的なものでなく、真に外なるものとして最も客観的なものでなければならぬ。それは抽象的普遍的なものとして考えられた人類でなく、却って人間の存在の根拠としての世界でなければならぬ。従って我々は人格として社会を超えるといっても、個人的非社会的であるということではない。我は汝に対して我であり、我の存在根拠であるものは同時に汝の存在根拠であることなしには我の存在根拠であることもできぬ。しかも真に内なるものは真に外なるものであり、外なるものを離れて内なるものがあるのではない、現実の世界とは別に世界があるわけではない。世界は自己形成的世界である、世界は世界を作ってゆく、人間は創造的世界の創造的要素である。我々の役割は単に社会から書いて与えられているのでなく、他方我々自身が自由に書き得るものである。言い換えると、それは社会的に定められていると同時に我々自身の定めるものである。我々は社会から限定されると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ。我々の職能は固定的なものでなく、歴史的に、言い換えると、主観的・客観的に形成されるものである。役割における人間として我々は社会にとっての手段であるとすれば、人格として我々は自己目的である。人間は自己目的であると同時に手段であるという二重の性格のものである。
さて右に述べたように徳と技術とが結び付いているとすれば、徳と知との結合はおのずから明瞭であろう。すべての技術は知識を基礎としている。行為が技術的である限り、行為における発展は知識における発展によって可能にされる。徳と知とを分離的に考えることは、行為を技術的・形成的行為として根本的に把握しないところから生ずるのである。ここに技術というのは、もとより単に自然に対する技術をのみ意味しない。むしろすでにいった如く、社会に対する技術が今日極めて重要な問題となっている。とりわけ政治はアリストテレスが考えたようにアルヒテクトニッシュな意味をもっている。即ちそれはあらゆる技術の目的となるような技術、他の技術に対して総企画的にその位置と関係を示す指導的な技術である。アリストテレスにおいて政治学と倫理学とは一つのものであった。人間は本性上「社会的動物」であるとすれば、政治学と倫理学とは離れたものであることができぬ。アリストテレスにとって政治の目的は、いかにして「善い国民」であることと「善い人間」であることとを統一するかということであった。人間は「善い国民」の意味において社会にどこまでも内在的である。従って仮に自己の属する社会が悪いとしても、その社会において与えられた役割を果し、その社会に仕えることが彼の義務で
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