何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっているのでなければならぬ。数学の如きも物理学にとっての言葉と見られ得るであろう。思惟と言葉とは不可分のものであって、言葉に表現されない知識は知識でないということもできる。認識もまた人間の形成作用、表現作用のひとつである。知識を象徴的なものと見ることは、知識を主観的なものにしてしまうことではない、単に主観的なものは象徴的とはいわれない。象徴とは主観的なものと客観的なものとの統一であり、知識も主体と客体との関係から成立するものとしてかような性質のものであると考えられるのである。もちろん、知識が象徴的であるというのは、芸術が象徴的であるというのと同じではない。しかし一方知識においても、自然科学から歴史科学、更に哲学に至るに従って一層象徴的なものになるといい得ると共に、他方芸術においても、フィードレルの考えたようにその目的は美であるよりも真理であるともいい得るのである。象徴的なものは表現的なものである。真理と言葉(ロゴス)とが同じに考えられたように、真理とは表現的なものである。表現的なものは単に主観的なものでなく、却って超越的意味を含むものである。かように
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