換えると、我々の心が存在を模写するにしても、受動的な直観においてでなく、その加工によって生ずる思惟の生産物においてでなければならぬ。即ち摸写が与えられたものをただ受動的に写すことを意味する限り、模写説の成立する余地はない。我々がそれを摸写するといわれるものは、既に与えられているものでなければならぬ。しかるに知識において見ることは予見することである。見ることが予見することであるによって、知識は、本質的に未来に関係付けられている行為に役立つことができる。ところで予見されるものは未だ与えられていないものであるから、これを模写するとはいわれないであろう。かようにして認識が模写であるということは、認識の究極の意味に関わり、認識はその究極の意味において存在と一致しなければならぬということになるであろう。尤《もっと》もこの場合、模写ということは文字通りには考えられない。そこには思惟の加工があるのであるから。認識するとは加工することである。しかし思惟のいかなる加工物も、その究極の意味においては存在と一致することを要求されており、従って存在に制約されている限り、認識には模写的意味があるといい得るであろう
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